「私とは何者か」 鈴木ペーソンヒ牧師(石巻山城町教会)

/n[詩編] 40編2-5節 2 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ 3 わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。 4 かに幸いなことか、主に信頼をおく人/ラハブを信ずる者にくみせず/欺きの教えに従わない人は。 5 わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます。 /n[ローマの信徒への手紙] 3章21-26節 21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。 22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。 26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。 /nはじめに  私が洗礼を受けたのは中学校2年生の時でした。中学校1年生の時、知り合いのお姉さんに「教会に行くと楽しいよ」と言われたので行くと、ハンサムなお兄さんもいたので何だかわくわくして一年間教会に通いました。そうするうち突然、先生から「あなた、洗礼を受ければ」と言われました。周りのお姉さん達も「洗礼を受ければいいよ」と言いました。 洗礼が何の意味かはっきり分からないまま、私も、教会にずっと通う為に悪くはないなと思い、一ヶ月間の洗礼準備の勉強会に出ました。先生が、「このような質問の時にはこのように答えなさい」と全部教えて下さったので、その通りにして洗礼を受けました。これが私のキリスト教との出会いの始まりです。大抵の方は、聖書の話を深く理解し神様がどのような方であるかを知ってから、或いは、真剣に自分の信仰的な決断をしてから洗礼を受けることを考えますが、人間はいつ迄たってもそのようなことはなかなか難しいと思います。今考えてみると私は何も分からないで洗礼を受けました。ある面、牧師先生が、どうかこの子を神様に結び付けておきたいという半強制的な愛で導かれたと思います。今考えると、それこそ神様の恵みではなかったかと思うところです。その後、神学校に入ることになりました。神学校に入学したことや、牧師になったことが本当に良かったのかとの思いがしばしばありました。しかし今振り返ってみると、私が洗礼を受けたのも、神様の特別な恵みと愛であった。何も分からず歩いてきたらいつのまにか神様が私をここ迄導いて下さった。そう考えています。 /n教会生活  洗礼を受けてしばらく教会へ一生懸命通いましたが、高校に入り、一年過ぎた後、教会に行きたくなくなり、だんだん教会から離れていくのですが、その理由を整理してみると、おおむね二つの理由からでした。一つは、牧師先生が講壇で、いつも「私達は罪人です。」ということです。又、祈るおばさまを見ると「神様、この罪人を許してください。」といつも泣いているのです。私から見ると、人の物を盗んだり人を殺したりするような、そんな悪いことをしているような感じでもないのに、いつも「罪人」、「罪人」という。牧師も講壇から「私達は罪を悔い改めましょう。」と言う。よくよく考えてみても、私はそんなに罪を犯した記憶がないのです。私なりに正しく真理を求めて生きていこうとしているのに、なぜいつも罪人と言われなければならないか。そのような抵抗がありました。  もう一つは、牧師先生が講壇から説教をして「このように信じていきましょう」というと、みんな「アーメン。信じましょう。」と答える。私は聖書に関して「これはおかしい」「これは何か」「これは合わない」と思うことがありました。たとえば全知全能である神様は人間が善と悪の木の実を食べるのを分かっているのに、なぜその木をそこに置いたのかという疑問です。そのような質問をすると「まあ、聖書のことはあまり深く考えないで信じましょう。」とおっしゃる。するとこの人達はあまり考えないで盲目的に、無条件的に信じているのではないか。教会に来ている人は利口のようだが、どこかちょっと抜けているのではないか。私達の理性を超えた神様に、考えずにただ「従っていきましょう」と言っている。そのような感じを受けました。これらが離れた理由です。 /n再び教会へ  教会に行かないまま高校を卒業して大学に入ろうとしましたが、思い通りにいかず浪人生活をすることになり、さらに、家のことも重なり、悩む時期がありました。そのような私を見て親しかった友達が又教会に誘ってくれたことがきっかけとなり、再び教会に通うことになりました。小さな、仙台南伝道所のように開拓伝道する教会へ導かれました。立派な説教をする先生ではありませんでしたが、その時は先生のメッセージを聞いていると涙が出てその通りだと思えました。そしていつのまにか私は、かつて私が非難した人達のように、神様の言葉を自分の心の中に入れている人になりました。 /n罪に気付く  ある日、教会で一生懸命祈っている時、聖霊が自分の上に注がれるような体験をしました。自分が祈るのではなく、何か、神様によって導かれて自分が祈っているような不思議な体験でした。その時、私の心の中で(頭の中で)浮かび上がったのは自分が犯してきた罪でした。今まで悪いとも思わなかったそのすべてが、スライドのようにス-っと私の目の前を通り過ぎながら、私がいかに自己中心的で自分だけのことを考えていたのか。いかに多くの人を傷つけて今まで生きてきたのか、もう最後は声を出して大きな声で泣きながら祈りを捧げました。聖霊によって、神様の光に照らされて、私は自分自身がどのような者であるかを知ることが出来たのです。今迄気付かされなかった罪の深さがどれ程か、それもその時分かりました。 /n私達は神のかたちに似せてつくられた  創世記1章26節に、神様はこの世をすべて創造され、人間を造ろうとした時、「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」とおっしゃることから始まったことが記されています。私達は「神のかたちに似せて」造られたのです。私達がこのように生きていながら「この人はとても良い人だ」と思う人も沢山いますが、時には「この人はこの地球からいなくなってもいいのではないか」と思わせられるような人もいます。しかしその人の中にも神様のかたちがある。神様がご自身のかたちに似せてその人も造られたというところに、私達は人間の尊さ、人間の価値を見ます。私達の目には要らないと思われる人であっても、いかに大切な存在であるかを考えるのです。神様のかたちにかたどられた人間を見て、神様はよしとされ喜ばれました。又、エデンの園に全てのものを備えて、それを神のご命令によって人間が支配するようにしました。それなのに人間は、神様の命令に背くことによって、エデンの園から追放されることになります。その後、生まれた子供が自分の弟を殺す。またその次の人間の歴史を見ると、復讐に復讐を重ねて血まみれの歴史が始まっています。自分の弟を殺したカインは不安と恐怖の人生になりました。憐れみ深い神様によって、カインは何とか死から守られる人生になりましたが、この世をさまよい、底もつかない不安の中で生きるものになりました。 /n悲しみのあとの癒し  皆さんは今、幸せな中で生きている方もおられると思いますけれども、そのような人達も、悲しい演歌やいろいろな歌(クラシック音楽なども)を通して悲しい歌や音楽を聴くと、何となく私達の心が深くその悲しみに沈みながら、自分が癒されるような気持になる時があります。私が研究した北森嘉蔵先生は特に歌舞伎が好きだったらしく、歌舞伎を見ながら慟哭する。はらわたが痛むほど泣く。そのような後で自分がすっきりしたような気持になるというのです。なぜ私達はこのように悲しい歌、悲しい映画を見ながら涙を流すことによって自分が癒される気持になるのでしょうか。それは、私達の人生が、又、私の心の深い深いところに、深い悲しみと嘆きを持っている。音楽やドラマがそのようなところを引き出して、共に泣くことによって自分が癒される気持になる。私達の人生が深い悲しみをもっているのはなぜでしょうか。それは、神様の前で喜んで生きるしかない私達が、神様に背いてしまう。それでお互いが憎み合い殺し合う・・そのような人生の中を生きる私達の中には、故郷を失った旅人のように、そのような嘆きが深いところに潜んでいるのではないでしょうか。 /nオウム真理教や統一教会に向かう人達  オウム真理教や統一教会に惹かれる人達がいます。(キリスト教徒の中でも、彼らを導き出す為の活動をする方々がいます)。私達から考えてみると、とんでもない、なぜあんなところに惹かれるのか。愚かな人達のように思われます。しかし大学を卒業して、又、暖かい家庭で、何の問題もないような人達が惹かれていきます。今まで見聞きして感じられたことは、この世を生きる不安と、理由も分からない悲しみから、どこかより頼むところ、どこかに自分が所属しているところが欲しいと求める気持があるのではないかと思われます。自分自身をコントロールすることが出来なくなる。虚無と、どうしようもできない問題の前で、自分自身が決断し責任をもってしっかり歩む価値観を失うことで自分自身を失っていく。ですから悪い所であっても、自分が確信をもってより頼むところを求めているのです。「何かおかしい。ここはだめだ。」と感じながらも、そこに、はめられてしまう。 /nもう一つの法則  使徒パウロは、ロマ書7章15節で「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです 」と言っています。これは「私が憎んでいることなのにやってしまった」ということです。私も時々、ある人の行為に対して嫌だなと思う時がありますが、いつのまにか自分も同じことをしている。そのことを思わされる時があります。使徒パウロは又、言います。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか 」。ここだけを読んで見ると、使徒パウロが何か悪い事をしているように思われますけれども、使徒パウロは熱心なユダヤ教の信徒でした。有名な律法の先生のもとで勉強し、律法を一生懸命に守ろうとしました。ですから律法に反するキリスト教の人達をつかまえて牢にいれて、自分が一生懸命に信じている信仰を守ろうとしたのです。ある面、本当に真実に、神様に喜ばれる者として一生懸命生きていこうとしていたのです。そのような使徒パウロがイエス様に出会って、このような告白をしている。なぜでしょうか。真実に生きていこうとすればするほど、真実とは違う自分の深い所の罪。愛そうとすればするほど、愛せない自分。他人を理解しようとすればするほど、理解できない自分。律法を一生懸命守ろうとすればするほど、挫折してしまう自分自身がいたのです。それで言うのです。律法では救いがない。律法では、いつもあなたの罪はこれで、これが間違っています、と自分を責めるばかり。しかし、私達の主イエス・キリストに感謝します。イエス・キリストが十字架で私の為に死んで下さった。それで私のこの罪を許して下さった。ただし無償で。義とされる恵みを与えて下さった。 /n私の努力ではなく、イエス・キリストを信じる信仰のみによって  私は無力で、弱くて、いかに真実に生きていこうとしても出来ない。神様のことを深く理解して、神様の前で自分なりに欠けがないような信仰告白をして、洗礼を受けようと考える。しかしそれではいつまでも出来ないのです。私に「とにかく洗礼を受ければいいよ」と言った、半強制的な先生の導きは正しかった。ただイエス・キリストの、その御導きによってのみ、それに結ばれた私達は義とされる。本当の恵みの人生に生かされることが出来るのです。神学者ルターは、どうすれば私は神様に救われるのか。どうすれば神様に喜ばれる人生を送ることが出来るのかと考え、修道院に入り、様々な体験をしました。祈りをし、階段をひざで歩いて上まで昇り、下まで降りて、自分自身を痛み傷つけながら、肉の欲望をおさえながら、何とか「主による人生」になるようにもがいた。しかしルターが発見したのは、使徒パウロが言うように、私が一生懸命努力して神様に認められることはない。ただ、自分の罪の惨めさを知るだけ。私の為に十字架で死んで下さった、そのイエス・キリストの贖いによってのみ、それを信じる信仰によってのみ私は救われる。それをルターも発見したのです。使徒パウロは、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされたのです。」と語りました。私達は主イエス・キリストに結ばれて、主イエス・キリストを通してその神様の光のもとで自分自身を知ることが出来る。私がいかに空しく弱い存在であるか。又、その中で私の隣にいる相手がいかに弱いものであるか、いかに傷つきやすいものであるか。そのところで、私達はその人を赦し、愛することが出来るのです。そして私のような存在を受け入れて下さって、私の為に十字架で死んで下さったイエス様の恵みを知る時、<神様のかたちをとっている、神様に造られた>他人を愛することが出来るのです。 /n主にのみ、望みを置く  詩編の作者は言います。「主にのみ、私は望みをおいていた」(40:2)。そうです。主にのみ私達には望みがあるのです。時々フィギュアスケートの選手やスポーツ選手達の試合前のインタビューで「勝つ自信がありますか」という質問に「私を信じて行きます。」という答えを聞きます。勿論、自分自身が一生懸命努力して、そのように信じようとする。人間的には気分がわかります。しかし本当に自分自身を信じることが出来るのでしょうか。使徒パウロさえ、私は望むことはしていない。自分が憎んでいることをいつのまにかしている、その惨めな自分自身、私自身を信じることが出来るのでしょうか。いくら私を愛してくれている両親であっても、妻であっても夫であっても、その人も神様の前では弱い存在である。その人に望みがあるのでしょうか。望みはありません。それを悟った詩編の作者は「主にのみ、私は望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった」。つまり、私の祈りを聞いて下さるということです。それで「滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私の口に新しい歌を、私達の神への賛美を授けて下さった。」(同3-4)のです。神様が、ただ私達の叫びだけを聞いて、それで終るならば望みはありません。しかし私を滅びの穴、泥沼から引き上げて下さり、私の足を岩の上に立たせて下さる、しっかりと歩ませて下さる。つまり姿は見えませんが、私の生きるこの現実に働いて下さる。生きておられ神として、私の歩む道に共におられ導き働いて下さる。それを私達は何によってわかるのでしょうか。 /nイエス・キリスト  神の独り子イエス・キリストが見える形で、人間になって、私達の所に来て下さった。神様が見える形で、私達の人間歴史の現実に来られた。言葉が肉となった。私達が聖書を読んでこの説教を聞いて、神様の御言葉を聴きますが、それが見える形になることを私達は信じていくのです。私が信じるこの御言葉が肉になる。私の助け主になる。私の滅びの穴、泥沼から、様々な問題から、私を引き上げて下さる。それで、私の口に、この世を超えた新しい歌と賛美を授けて下さる。それを私達は信じているのです。そのような告白が私達の礼拝であり、又、そのような確信を再び持って私達はこの場所に座っているのです。「人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む」(同)。結局、私達の信仰の結末・肝心なことは、益々主により頼む。良い事があっても悪いことがあっても時には教会の中でも問題があります。その時こそ主に依り頼む。「いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。」(同5)。自分の子を失ったような悲しみの中でも教会から離れず、ただ主に依り頼む。 /n私は何者か  私達は問題があって牧師に相談する時、牧師はいつも「共に神様に祈りましょう。神様の愛と恵みを信じましょう」。いかに偉い先生に言っても答えはこれだけです。人間の手には何も出来ないからです。共に祈ることによって、生きておられる神様が働いて下さることを私達は望み、聖書に記されている神様の愛を共に信じていくしかないからです。共に信じていく。そこで主が働いて下さる。私の問題に手を伸ばし、私の嘆きを聞いて下さり、愛する独り子をこの世の中に一番低い所に送って下さった。そのような神様に、牧師が共に手を握って祈るしかないのです。 私は何者でしょうか。結論は、望みがない。神様の前に無力。罪の中に生まれ、罪の中に死ぬしかない。しかし神のかたちを持っている尊い存在として神の恵みに生かされている。神によってのみ大事な、貴重な、かけがえのない存在なのです。そのような私達は告白することができるのです、「主にのみ、私は望みを置いている。主は耳を傾けて、叫びを聞いて下さる」。私の叫びを聞いて下さっている主が、私に一番良いものを与えて下さった。私は皆さんが、神様の光のもとで、私が何者であるかを確信し、「ただ主に依り頼む者」として、そこにだけ望みをおいて生きることができる。そのような勝利者になることを願います。