「四種類の種のたとえ」 平賀真理子 伝道師

/n[ エレミヤ書] 4章3-4節 3 まことに、主はユダの人、エルサレムの人に/向かって、こう言われる。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。 4 ユダの人、エルサレムに住む人々よ/割礼を受けて主のものとなり/あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに/わたしの怒りは火のように発して燃え広がり/消す者はないであろう。」 /n[マルコによる福音書] 4章1-20節 1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。 8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」 9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。 10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。 11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」 13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。 20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」 /nはじめに  「良く聞きなさい」との言葉で始められ、「聞く耳のある者は聞きなさい」で終わるイエス様の御言葉は、聞く人々に対して真剣な姿勢を求めておられます。神の国に入れるかどうか、神様の目は一人一人に注がれています。理解して、実際の生活の中で御言葉が生かされるよう願っておられます。今朝は「種を蒔く人」のたとえを学びますが、イエス様は「種を蒔く人」としても、この世に来られ、神の国を建てるために努められました。  種は神様の御言葉です(13節)。天から降ってくる御言葉を、地上で人間が心の中・人生の中で受け入れ、その種を芽生えさせ、育くみ、守り、神の国にふさわしい実を結び、神の国を広めていくことを期待されています。 人間は「神の似姿」(創世記1:27)として、本来は神様の本質や神の国の素晴らしさを理解し、喜こんで受け止め、讃美するように創られています。しかしサタンは、神様と人間の祝福された関係を破壊し、神様に属するものを素早く察知して攻撃し、亡きものにしようと常に働きかけてきます /n最初の種  このたとえでも、真っ先に「鳥が食べた」という表現で、サタンは御言葉が人の心に入ることを妨害するとしています。先日の祈祷会で「人の怒りは神の義を実現しない。」(ヤコブ書5:20)という御言葉を学んだ私は、日頃の家族への「怒りの態度」を悔い改めようと決心して帰宅した直後、いつも頼んでいたはずの家事が忘れられていたことに激怒してしまいました。後で考えてみると、そんなに怒ることではありませんでした。しかしサタンは、祈祷会直後の私の決意を帰宅後には取り上げようと、小さな機会をも狙っていたことを思わされました。 /n二番目の種  二つ目の種は、「土の少ない石の上で、芽生えはしたが、根が張れずに、日の熱で枯れてしまった」と、根を張ることの重要性を教え ています。落ちた場所が悪く、根を張れず、必要な水分「命の水」を得られずに生きられなかったのです。根を張れないとは、御言葉 が心に深く入っていけないということでしょう。 私自身、自己中心的な感性と行動、悪い感情に支配される粗暴さ、一時的安楽に流れる怠慢さや愚かさなどの、自分自身の罪悪を見つめることが何度かありましたが、それらの罪悪をもあがなって、私を神様につなげようとして下さるイエス様の愛と働きを、聖書から学ぶことを通して、私は形式的なクリスチャンから少しずつ変えられてきたように思います。が、まだ「根」は充分に張っていない・・と危機感があります。「根」を深く伸ばすには礼拝に出席することだけで満足せず、祈り、聖書を学び、「命の水」を常に得る神様中心の生活を送ることです。 /n三番目の種  三つ目の「茨に覆われてふさがれて実を結ばない」種については、エレミヤ書4:3-4に学びたいと思います。「茨に覆われる」とは、「主を神として従わない人々の中で生活し、心身ともにそれに染まってしまって、主への信仰を失い、救いから遠ざかること」です。そのような状況では、主の霊に導かれて「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22)の実を結ぶことができなくなります。偶像礼拝をする異教には、怒り、利己心、不和、仲間争い、好色など(同19)を克服できる力が何もないからです。イエス様を主と仰ぐ信仰生活を始めた者は、一つ一つの考え方、習慣、行動が主を中心にしているのかを日々確認し、主に従おうとする心が生きていけるように悪いものの影響が取り除かれるよう祈ることです。 /n四番目の種  最後の、「実を結ぶまでに到った種」は、良い土地に落ちました。御言葉が成長するにふさわしい心を持つ人とは、御言葉を受け入れ、更に、三つの悪条件から守られた人です。これは神様の恵みとしかいいようがありません。詩編一編の一節から三節にこのように書かれています「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」さらに、エフェソ書4:13にも成長の祝福があります。「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」神様の愛と与えられた恵みに感謝し、この一週間も歩めるよう祈ってまいりましょう。