「イエス・キリストのわざ」 佐藤義子 牧師

/n[詩編] 121編1bー8節 1b わたしの助けはどこから来るのか。 2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。 3 どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。 4 見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 6 昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。 7 主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。 8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。 /n[使徒言行録] 9章32ー43節 32 ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。 33 そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。 34 ペトロが、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。 35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。 36 ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。 37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。 38 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。 39 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。 40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。 42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。 43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。 /nはじめに  本日は「聖徒の日」として召天者記念礼拝をささげます。「聖徒」とは、神様に対してきよめられた者のことで、すべてのクリスチャン・キリスト者をさす言葉です。しかし「きよめられた者」とは、道徳的な意味でなく、コリントの手紙1:30「神によってあなた方はキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私達にとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。とあるように、その人自身が聖いのではなく、イエス・キリストの持っておられる義と聖を与えられた者、キリストの所有されておられるものを転嫁された者であるということです。「誇る者は主を誇れ」とあるように、私達には誇るものは何もない。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって私達は義とされ、聖いものとされている、ということです。 /n私達は旅人   ヘブル書では、信仰をもって生きる者は地上にあって天にあるふるさとを求めて歩む旅人であると表現しています(11:13-)し、フィリピ書には、「私達の国籍は天にある」(3:20)とあります。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きる永遠の命が約束されていますので、特に今日は信仰をもって生き抜いた天上の聖徒の方々を覚えつつ、礼拝をささげます。いずれ私達は、この写真の方々と同じように神様から召される時を迎えます。その時、私達は、地上での生涯を神様に深く感謝し、神様のもとに喜んで召される者でありたいと願うものです。キリスト者の死は、この世での絶望的な死ではなく、天国への凱旋であり、神様のご計画のもとに召されていくという、神様にお委ねした平安の時でもあります。地上においては愛する家族との別れがあり、残されていく家族への思いは測り知れないものがあります。しかしその悲しみ・心の痛みも、やがて必ず来られるイエス・キリストの再臨の時までで、残された家族には神様の慰めといやしを信じることが出来るのです。パウロは手紙でこう記しています。「私は世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦いぬき、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けて下さるのです。しかし、私だけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、誰にでも授けてくださいます」(テモテ4:6-8)。この信仰を与えられるように共に祈りたいと思います。 /nアイネアとタビタ  今日の聖書には、二つの出来事・・一つは、8年間中風で寝たきりのキリスト者がいやされた話、もう一つはクリスチャンの婦人が生き返った話です。ここに、私達の生も、死も、病も、すべてを支配されるお方がおられることが伝えられます。私達は自分がいつ生まれていつ地上を去るのか、自分で決めることはできません。病についても同じです。私が出会ったある入院患者さんはこう私に言いました。「結核という病気がどうして起こるのか、その原因については知ることができます。でも私が知りたいのは、その結核という病気になぜ、この私がならなければならなかったのか、それが知りたいのです。」この言葉は、おそらく病気の方、すべての思いではないかと思います。しかし、この問いに対する答え、それを聞くべきお方は、神様以外にはおられません。 /nイエス・キリストのわざ  私達は被造物(神によって造られたもの)で、神様の支配の下で生かされているゆえに、「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」「タビタ、起きなさい」という、神様の創造者としての力、命を支配されるお方の力を、イエス・キリストが弟子ペトロを通して、この二人に働かれたのを見て、神様を崇めます。