「永遠の命を得る者・得ない者」 牧師 佐藤義子

/n[イザヤ書] 42章5-9節 5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。 6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。 7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。 8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。 9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。 /n[使徒言行録] 13章42-52節 42 パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。 43 集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 46 そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。 47 主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、/あなたが、地の果てにまでも/救いをもたらすために。』」 48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。 49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。 51 それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。 52 他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。 /nはじめに  アンティオケのユダヤ教の会堂で、次の安息日にも同じ話をして欲しいと頼まれたパウロとバルナバは、再び福音を宣べ伝えようと会堂を訪れます。この日、パウロとバルナバの話を聞こうと、町のほとんどの人々が集まってきました。この群衆を見た時、ユダヤ教の人々はねたみ、「イエス・キリストこそ、神の子・救い主であり、死に打ち勝って復活された方である」とのパウロの説教に対して、口汚くののしり、説教を妨害しました。 /n選民ユダヤ人は退けられる  パウロは彼らに対して、「神様の言葉はまずユダヤ人に語られ、救いはユダヤ人から始まることになっていたのに、あなた方は私が伝える神様の言葉を聞こうとはしない。あなた方は、みずから聞くことを拒んでいる。神様の言葉を聞いて信じる者は、永遠の命を与えられる恵みが約束されているのに、あなた方はみずからそれを受けるに値しない者にしてしまっている」と断罪します。更にパウロ達は今後、聞く耳をもたないユダヤ人にではなく、(ユダヤ人以外の)異邦人の救いの為に働くことを宣言しました。 /n二つの道の選択とその結果  それまで神様の救いや恵みから遠く離されていた異邦人達は、自分達にも福音が訪れたことを知り、喜びと讃美につつまれます。他方、ねたみを抱いたユダヤ人達は、ますます激しくパウロ達に敵意を抱き、町の有力な人々を巻き込んで迫害し、二人を町から追い出してしまいました。二人は町を去るにあたり、足のちりを払い落します。これはイエス様の教えでもありました。「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。誰もあなた方を迎え入れないなら、その町を出て行く時、彼らへの証しとして足についたほこりを払い落しなさい。」「どこかの町に入り、・・迎え入れられなければ、広場に出て行ってこう言いなさい。『足についたこの町のほこりさえも払い落して、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』」。(マタイ10:14・ルカ10:11)御言葉を聞いて信じるのか、拒むのか、その結果は御言葉を聞いた人と神様との間の問題です。伝道者は、宣べ伝える責任を果たした後の結果は神様に委ねるのみです。聞いて福音を受け入れた者には喜びが与えられ、賛美が生まれ、神様の恵みのもとで生き続ける道が開かれる。他方、聞いても福音を拒む人達は、ねたみと敵意の中で、力をもって相手を追い出すことに奔走し、救いの喜びも、神様の恵みも遠くに押しやっています。福音が語られるところではいつでも見られる二つの道と結果です。 /n永遠の命を得る者  私達は毎週、ざんげの祈りの後に、赦しのことばを聞きます。それはヨハネ福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」の御言葉です。又、4章には「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(13-)とあります。永遠の命は肉体の死で終わる命と区別され、この世の死後にも続く永遠の中で生きる命、霊的な命と考えられています。この霊的な命、永遠の命を得るためには、霊によって新たに生まれなければなりません(同3:3参照)。つまり、悔い改めと信仰によって、イエス・キリストの復活の命にあずかり、聖霊を受けるということです。(ヨハネ福音書では、信じる者にはすでに永遠の命が与えられている・・11:26参照)。 /n永遠の命を得ない者  ここに登場したユダヤ人は、なぜ「永遠の命を得ない」道を選んだのでしょうか。彼らは、律法を守ることこそが永遠の命を得る条件であり、自分達は律法を行っている者であると自負していました。パウロが語る「人は律法を行い得ず、それゆえにイエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いがある」ことを受け入れようとしませんでした。自分の考え、思いを最優先にして、パウロを通して語られる、背後におられる神様に目を向けようとしなかったからです。私達は「信じない者ではなく、信じる者」(ヨハネ20:27)となり、永遠の命にあずかりましょう