「主を頼みとする」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 119編57-64節 57 主はわたしに与えられた分です。御言葉を守ることを約束します。 58 御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、わたしを憐れんでください。 59 わたしは自分の道を思い返し/立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。 60 わたしはためらうことなく/速やかにあなたの戒めを守ります。 61 神に逆らう者の縄が/わたしをからめとろうとしますが/わたしはあなたの律法を決して忘れません。 62 夜半に起きて/あなたの正しい裁きに感謝をささげます。 63 あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人/わたしはこのような人の友となります。 64 主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。 /n[使徒言行録] 14章1-7節 1 イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。 2 ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。 3 それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。 4 町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。 5 異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、 6 二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。 7 そして、そこでも福音を告げ知らせていた。 /nはじめに  今日の聖書は、使徒パウロとバルナバが、ピシディアのアンティオキアの町で伝道した結果、多くの人々がパウロの語るイエス・キリストの福音を信じて受け入れましたが、パウロ達にねたみを抱いたユダヤ人達が、パウロ達を町から追い出した、その後の活動が記されています。 /n追い出した理由  パウロとバルナバが町から追われたのは、二人の語るイエス・キリストの福音が、町中の人々の関心を集めて、多くの人々が二人のもとに集まってきたことがユダヤ人のねたみを買ったからでした。ねたみの感情がどれ程人間にとってコントロールがむつかしいか、私達は経験して知っています。人類最初の兄弟殺しとして知られるカインとアベルの話も、兄が弟をねたんだことから始まっています。相手を自分と比較し、相手が自分よりも弱ければ優越感を感じ、その逆ならば劣等感もしくはねたみをいだく・・。これが生まれながらの人間の罪の姿です。ユダヤ人達の妬みは発展し、貴婦人や町の有力者達を扇動して二人を町から追い出しました。 /n扇動  扇動とは人の気持をあおりたてて、ある行為をするようにそそのかすことです。イエス様が総督ピラトの裁判を受けていた時も、イエス様が無実であることを知ったピラトは、イエス様を助けようと恩赦の制度を持ちだしましたが、祭司長や長老達に扇動された群衆は、「十字架につけろ」「十字架につけろ」と激しく叫び続けるだけでした。ピラトは暴動が起こりそうなのを見て手を引いてしまったのです。いつの時代でも、どこの国でも扇動される人間がいます。自分で善悪を判断することを放棄し、力ある側に身を委ね、長いものにはまかれろ式の生き方です。言いかえれば、変化を望まず、自分の身を安全圏に置き、自分が加担しているにもかかわらず、なされている事柄・結果に対しては責任を負いません。ユダヤ人達の扇動は成功し、パウロとバルナバは町を出ざるを得ませんでした。 /n真の勝利者  見えるところでは、パウロ達はユダヤ人達に負けました。しかし使徒言行録13章の終りには、「他方、弟子達は喜びと聖霊に満たされていた」とあります。弟子達とは、パウロとバルナバの伝道によって新たに救われた異邦人達のことです。すなわちこの地には、新しく信仰を与えられたクリスチャン達が残されました。彼らは喜びに満ち、聖霊を与えられていました。この事実こそ、イエス・キリストの「復活の勝利」の姿であり、福音を阻止した(阻止できた)と思いこむユダヤ人の敗北といえるでしょう。「私は犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。」(テモテ二2:9)とあるように、ここでユダヤ人達が追放したのは使徒達だけであり、神の言葉までは追放出来ませんでした。 /n主を頼みとする  次にパウロとバルナバは、約140キロも離れたイコニオンの町で伝道します。ここでも大勢のユダヤ人やギリシャ人が信じましたが、その一方で信じようとしないユダヤ人による扇動が起こり、二人に悪意を抱かせる妨害行為を受けました。しかし3節に、「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った」とあります。迫害やあらゆる形の嫌がらせ、多くの誹謗中傷にもかかわらず二人は可能な限りイコニオンに長くとどまることが出来ました。なぜでしょうか。その理由は「主を頼みとした」からです。(イザヤ書30:15、詩編32:10、同62:8-9、同84:12-13、同125:1、箴言3:56参照)。 二人が語り伝える神様は、イエス・キリストの父なる神様であり、絶対信頼するに足るお方です。AD150年頃、小アジアのスミルナの主教のポリュカルポスは、信仰のゆえに捕えられましたが、彼に同情した役人からキリストを呪うなら許してやると言われて「86年の間、私は彼に仕えましたが、彼は私に何も悪いことはなさいませんでした。私を救って下さった私の王を、どうして呪うことができましょうか」と答えて殉教したと伝えられています。 常に、私達に先立って守り導いて下さる、父なる神様と、その神様をあらわして下さったイエス様と、今も共に働いてくださる聖霊に、私達も生涯をかけて信頼し、従っていきましょう。