「神の力と知恵であるキリスト」 佐藤義子 牧師

/n[イザヤ書] 29章13-14節 13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。 14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」 /n[コリントの信徒への手紙一] 1章18-25節 18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様の十字架について、神様の御計画の意図を伝えているところです。神様はこの世界と人間を創られました。しかし人間は罪を犯し、不完全なものとなり、完全なる神様との関係は断絶されました。罪をつぐなうことのできない人間に、神様との和解の道はありませんでした。しかし神様は人間を愛して下さるゆえに、独り子であるイエス様をこの世に送って下さり、イエス様は、父なる神様の御心に従って人間の罪の償いとして十字架にかかり、死をもって神様の赦しを私達人間に与えて下さいました。これによって私達は、もう一度神様につながることができるようになりました。イエス様が<span style="font-weight:bold;">「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」</span>(ヨハネ福音書14:6)と語っている通りです。それゆえに私達は自分の罪を悔い改めて、イエス様を信じることによって救われます。罪が支配するこの地上に身を置く私達ですが、信じる者は神様の支配する神の国の民とされ、神様のご支配の中で生きるのです。 /n伝え続けていること  教会は、この福音を2000年間伝え続けてきましたし、仙台南伝道所でも、神様が天地を創られ、世界を創られ、人間を創られ、生きて働いておられること。神の独り子であるイエス様が地上に遣わされ、目に見えない神様のことを目に見える形で教えてくださり、人間がどのようにして生きるべきかを身を持って示されたこと。そして、私達の罪をあがなうために十字架の死を迎えられたこと。しかし死んだ後、三日目に復活し、天に昇り、神様の右の座につかれ、今は、信じる者に聖霊を送って下さっていること。この聖霊が私達と神様およびイエス様との間をとりなして下さり、日々、導いてくださること・・を使徒信条の告白を通し、説教を通して伝え続けています。 /n<span style="font-weight:bold;">「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私達救われる者には神の力です」(一コリント1:18)</span>  この言葉から、福音が、この世の知恵や知識ではないことが明らかにされます。聖書が伝えているのは、人間の救いについてです。イエス・キリストの十字架が示すものは、人間の罪の赦しであり、神様の愛であり、神様の知恵、力なのです。なぜ神様は、人間にとって最も大切な救いへの道に、「神の子としての崇高な姿」を印象づけるような道ではなく、「十字架」を置いたのでしょうか。その答は<span style="font-weight:bold;">「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」</span>(同1:19 および イザヤ書29:14参照)からです。自分の力で神様を知ろうとする人の知恵や賢さは、神様によって滅ぼされるとイザヤは預言しました。昔も今も、知識人、学者、この世の論客は沢山います。頭脳明晰な、天才、秀才、博士と呼ばれる人達も多くいます。しかし十字架を理解するのは、この世の知識ではありません。目を上にあげ、神様が「私の創り主」であることを知り、自分の小ささを知り、神様の前にへりくだることがないなら十字架を理解することはできません。人間の知恵・知識の進歩と、神様への知識は比例しません。 /n<span style="font-weight:bold;">「神の愚かさは、人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」</span>(同25節)  神様は何でもお出来になります。しかし神様はご自分の力を、人間の目から見れば愚かにしか見えない十字架という形で示されました。十字架にかかったイエス様こそが神の御子であり、救い主であるのです。その十字架を「愚か」としか見ない者は滅びの道に進み、十字架を、「神の力・神の知恵」として信じる者は救われます。私達の取るべき道・・。それは、<span style="font-weight:bold;">わたし</span>の罪の為に十字架にかかって下さったイエス様を<span style="font-weight:bold;">わたし</span>の救い主として信じ、告白し続けることです。十字架には神様の隠された力と知恵と、限りない神様の愛があります。