「主の復活と最初の証人」 平賀真理子 伝道師

/n[詩編] 16編7-11節 7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。 8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。 10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。 /n[ヨハネによる福音書] 20節1-18節 1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 /nはじめに  教会暦では主の復活後50日間を復活節として守ります。この復活節の期間、特に主の復活の恵みを覚えて過ごし、今日は「主の復活の出来事」について、共に学びたいと思います。 /nマグダラのマリア  イエス様が墓に葬られて三日目、イエス様の墓に最初に行き、遺体が消えたのを発見するのは「マグダラのマリア」です。彼女は主の十字架を見守った一人でもあります。マグダラのマリアは、イエス様に七つの悪霊を追い出してもらいました(ルカ福音書8章)。彼女は多くの罪をイエス様によって赦され、その後、主に従うことを赦された人間です。マリアのように罪の苦しみを知っている者こそ、救われる恵みを深く感謝でき、主に従う覚悟ができると思います。今、自分の中に逃れ得ない罪を覚える方、自分一人で戦っていても、もとに戻ってしまう方こそ、イエス様の恵み・・罪から解放される喜び・・を知っていただきたいと思います。イエス様が神の御子であることを信じて、その御力を頼みとして、救いに与(あずか)っていただきたいと思います。 /nマリアの悲しみと絶望  マグダラのマリアは、主の遺体が消えたという情報を弟子たちに伝えに行きますが、その後も墓へ戻り墓の外で泣いておりました。彼女はイエス様の死によって、み跡に従って歩む幸いを奪われて絶望していました。彼女は、死の世界の象徴である墓の方を見つめ、イエス様の遺体の在り処を知りたいと願うばかりでした。自分の狭い考えの中での、最善の希望に固執して、それがかなわないことで絶望したのです。人間の悲しみは このように、死や暗闇の方向ばかり見ていることや、自分の考え・感情に囚われることからくる場合が多いのではないでしょうか。 /n墓=死・生=命  そのようなマリアに、墓(=死の方向)とは180度逆の、生(=命)の世界から、主は声をかけて下さいました。自分の感情に囚われていたマリアは、その声が初めは墓地の管理人だと思いますが、イエス様が「マリア」と名前を呼んで下さったことでイエス様に気付きます。当時、名前を呼びかけることは人格の交流を意図していたそうです。イエス様の呼びかけは、こういう表現になるのでしょうか・・・ 「マリア、救い主としての私が呼びかけている! 私は、死の世界からではなく、天地創造の神の御子として、命を与える『生』の世界からやって来たのだ! 死の世界を見ていては救われない!こちらを向いて、生きている私の方に付きなさい。私は預言通り、三日目に復活した!」 /n復活の証人  マリアが最初の復活の証人として授かった役割は、イエス様が「兄弟達」と呼んで愛した弟子達に、「私の父であり、あなた方の父である方、又、私の神であり、あなた方の神である方の所へ私は上る」、と告げることでした(ヨハネ16章-17章)。イエス様は、ご自分が神様の御子としてこの世に遣わされ、神様のご計画通りに歩み、最後は再び父なる神様の右に挙げられることを証しされていました。まさしく、神様がこの世の私達に、約束を守って働いて下さっているということです。 /n聖霊の助けをいただいて与えられる信仰  イエス様の復活の出来事を信じるか否かは、その証を聞いた者が、それを真実として受け入れるか否かです。人智を超えた不思議な出来事を受け入れるには神様の助けが必要です。「聖霊の助けをいただく」のです。イエス様が、ご受難の前に約束された、その霊です。 復活節の期間、主の復活を通して、神様の大いなる御力に思いを馳せ、神様を畏れ敬いながら歩んでまいりましょう。神様と御子イエス様が、死に勝利され、罪や死の世界から私達を解放して下さり、もはや、かつてのように、苦しむ必要はありません。その恵みに感謝し、神様の愛に応えるべく、主にあって喜びながら共に歩んでまいりましょう。