「伝道旅行を導く聖霊」 牧師 佐藤義子

/n[詩編] 81編6b-11節 6b わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。 7 「わたしが、彼の肩の重荷を除き/籠を手から取り去る。 8 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い/雷鳴に隠れてあなたに答え/メリバの水のほとりであなたを試した。〔セラ 9 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。 10 あなたの中に異国の神があってはならない。あなたは異教の神にひれ伏してはならない。 11 わたしが、あなたの神、主。あなたをエジプトの地から導き上った神。口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 /n[使徒言行録] 16章1-10節 1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。 4 彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。 5 こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。 6 さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。 7 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。 8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。 9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。 10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。 /nはじめに  今日の聖書には二つのこと・・パウロが伝道旅行先でテモテという青年に会い、彼を助手として伝道旅行に連れて行くために割礼を授けたこと。もう一つは、パウロ達の伝道がすべて聖霊の導きによって行われたこと・・が記されています。 /nテモテへの割礼  テモテは祖母も母もユダヤ人でしたが父がギリシャ人だった為、割礼を受けていませんでした。パウロは、エルサレム会議で「異邦人には割礼を強要しない」という立場を貫き、会議でもそのように決定されたので、パウロにとってはテモテが割礼を受けていないことは何の問題もありませんでした。しかしテモテを伝道旅行に連れて行く(伝道者の一人として)に際して、ユダヤ人をつまずかせない為にテモテに割礼を授けます。  「<span style="font-weight:bold;">私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです・・</span>」(?コリント9:19-20)。と、パウロはコリント書で書いています。テモテも又、それを受けました。 そして「<span style="font-weight:bold;">教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えて</span>」いきました(5節)。 /nパウロの見た幻  二つ目の出来事は、パウロ達の伝道がすべて聖霊の導きによって行われていったということです。彼らはアジア州での宣教が「<span style="font-weight:bold;">聖霊から禁じられた</span>」(6節)とあります。今回の伝道旅行は、第一回の伝道旅行で救われた人々を再び訪問し、力づけ、励ますことが主な目的でした。祝福されるべきこの伝道の道が閉ざされたのです。そこで、別の経路を選びますが、今度はビティニア州に入ることを「<span style="font-weight:bold;">イエスの霊がそれを許さなかった</span>」 (7節)のです。なぜ自分達の進む道がこのように阻まれるのか、自分達がどこに向かっていくのかわからないまま、彼らは残された道を進んで行き、そして到着した場所がトロアスでした。  当初の伝道旅行の計画にはなかった、この海沿いのトロアスに到着した時、パウロはある幻を見ます。一人のマケドニア人が立ってパウロに助けを求めたのです。パウロは翌朝、自分の幻を同行者に伝え相談しました。そしてこの幻は「マケドニアで御言葉を伝えるように」との「主の導き」に違いないと確信したのです。  この時からパウロ達は東から西へ、小アジアからヨーロッパへ、その歩みをすすめることになりました。 /n伝道旅行を導く聖霊  伝道は、イエス・キリストのご命令であり、キリスト教の命です。もしキリスト教が伝道をやめてしまったら、それはもはやキリスト教ではないとさえいわれます。なぜなら伝えていく時に、聖霊が働き、神様のわざが起こり、信仰者が生れるからです。  私達は、祈りが聞かれ、神様のわざが起こる時に「聖霊が働いた」と告白します。しかし、行こうとする右の道が閉ざされ、さらに左の道も閉ざされた時はどうでしょうか。私達の願う計画と、現実に導かれる道とは必ずしも一致しないことは、私達も又、経験するところです。  確かなことは、その目的が御心にかなうものである限り、祈りつつ進む時、神様は必ず働いて下さり、時がくればその一つ一つの意味が明らかにされるということです。分からない時は分からないままにそれを受けて、祈りつつそれに従うこと、そして今、出来ること・与えられていることをしながら、御心が明らかになる時を待つ・・そのことの大切さをここから学びます。  私達は刺繍の裏側を見るように、目の前に起こることの意味がわからず、一喜一憂しがちです。しかし私達は、美しい模様を描かれる神様を知り、神様に知られているゆえに、神様を絶対信頼し、今週も歩みたいと願うものです。