説教要旨 「ただわが霊によって」 東北学院大学 佐々木哲夫先生

伝道所開設6周年記念感謝)の礼拝説教要旨 /n[ゼカリヤ書]4章6-7節 6 彼は答えて、わたしに言った。「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。 7 大いなる山よ、お前は何者か/ゼルバベルの前では平らにされる。彼が親石を取り出せば/見事、見事と叫びがあがる。」 /n[ローマの信徒への手紙]12章9-21節 9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。 11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。 18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。 20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 /nはじめに  イスラエルの国は、その首都を今も昔もエルサレムに置いております。政治の中心地ですから、当然ながらエルサレムには国会議事堂があります。その傍にこじんまりとしたバラ園があり、そこにブロンズ製のモニュメントが建てられています。モニュメントは少々変わった形をしており、まず5mくらいの高さの一本の柱がど真ん中にドーンと建てられています。そこから左右に三本の支柱が枝分かれしています。一本の柱の両側に左右3本ずつ枝が分かれていて、全部で7つの枝が形作られている、それが燭台になっています。5mですからそれほど見上げるというわけではありませんが、結構大きいものです。実際に火が灯るということはないのですが、先端には木皿がついている。このモニュメントは実は有名なものであって、大きな形をしているだけではなく、その他二つの特徴があります。 一つは、モニュメントの表面(7つの枝の表面)に、旧約聖書の時代から現代のイスラエル建国の時代に至る歴史の、有名な場面が29の場面に分かれてレリーフで刻まれている。例えば出エジプトの出来事とか、十戒が与えられた場面、又、ダビデがゴリアテと戦って勝利した、そんな場面がレリーフ状に彫刻されている。そういうのは、我々はステンドグラスとか絵巻物で見るわけですが、それとは又、一風変わった感じで、イスラエルの歴史3000年以上を眺めることが出来る仕掛けになっているものです。 二つ目のモニュメントの特徴は、やはりこの燭台の枝のところ、側面に、聖書の言葉が書いてある。それが、今日読みましたゼカリヤ書4章6節の言葉。「<span style="font-weight:bold;">武力によらず、権力によらず、ただ我が霊によって、と万軍の主はいわれる。</span>」この言葉が、原文のまま、刻まれている。そんなユダヤの歴史と、聖書の中身が一体になって示されているモニュメントがあります。この七枝の燭台は、ゼカリヤに幻に示された燭台を題材にしたことが示されています。この七つの枝をもった燭台と二本のアーモンド。これがゼカリヤ書4章の最初から書いてあるところに記されていますが、それは、今日のイスラエルの国家的なシンボルになっているほどに有名な幻、図像であるといえます。 今朝は、ご一緒に、燭台に灯るともし火。このゼカリヤ書の幻の、燭台を念頭に置きながら、そこに灯るともしびの光について学びたいと思います。 /n常夜灯(一晩中ともす光)  ゼカリヤ書4章の最初に、神から示された幻が記されております。 「<span style="font-weight:bold;">『何を見ていたのか』と尋ねたので、私は答えた。「私が見ていたのは、すべてが金でできた燭台で、頭部には容器が置かれていました。その上に七つのともし火皿が付けられており、頭部に置かれているともし火皿には七つの管が付いていました。その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました</span>」(2-3)。 実はこういう七つの枝のある燭台を最初に作った人はモーセです。ユダヤ人達がシナイ半島の荒野を彷徨した出エジプトの時、指導者モーセが神の指示に従って、幕屋と呼ばれるテント式の移動式神殿を作りました。その時に神の指示に従って、この七つの枝が付いている燭台を作り、幕屋(移動式テント)に安置した。出エジプト記には次のように記されています。「<span style="font-weight:bold;">純金で燭台を作りなさい。燭台は打ち出し作りとして、台座と支柱、萼と節と花弁は一体でなければならない。六本の支柱が左右に出るように作り、一方に三本、他方に三本付ける。・・・これらの節と支柱は主柱と一体でなければならず、燭台全体は一枚の純金の打ち出し作りとする。次に、七個のともし火皿を作り、それを上に載せて光が前方に届くようにする</span>」(25:31-)。このように言葉が与えられたので、それを作り、幕屋とよばれる神殿に備え、火を灯し、それを常夜灯として、一晩中ともす光として、ともしたというのです。 おそらく荒野の中を彷徨するユダヤ人達にとって、真っ暗闇のなかで宿営する夜に、幕屋から光る光。七枝の燭台から光がこぼれて来る。それは、神が共にいるということをイスラエルの人々に告げ知らせるものであり、奴隷状態から自由とされ、故郷へ戻れる喜びをイスラエルの人々に実感させた、いうならば七枝の燭台に輝く光で、イスラエルの人達は自分達と神との関係を実感した、確認した、・・そういう光として、彼らは親しんだのです。 /nイスラエルの民の思い  荒野の旅をしてイスラエルに戻った彼らは、エルサレムを首都と定めて安定した国家を形成しようとしていきます。荒野でさまよっていた不安定な時代だけでなく安定的な国家を形成して安定した時代にあっても、七枝の燭台のある幕屋の神殿は、相変わらずユダヤの中においては、中心的な存在となっていきます。そしてやはり常夜灯として灯る神殿の光に、人々は様々な思いを寄せることになります。彼らの思いを旧約聖書の言葉から、二つほど引用したいと思います。一つは、その後王様となったダビデの言葉ですが「<span style="font-weight:bold;">主よ、あなたはわたしのともし火 主はわたしの闇を照らしてくださる。</span>」(サムエル記下22:29)と歌っています。自分に敵対する者達に囲まれて、具体的にどっちの方向に進んでよいか分からないような状態にあった、そういうことがダビデに何回もあるのですが、ある意味で真っ暗闇に置かれるような状態になったとしても、決して神様は私を捨て置かれることはない。だから失望したり、自ら見失うことがない、とダビデは語るのです。危機的な状態に陥っても、決して自分は一人ぼっちではない。神は共におり、目の前の闇を照らして下さるということを歌っています。 これは、単なる比喩的な表現ではなくて、困難な状態に陥っている者に、その困難を切り抜けさせる方法を思い起こさせてくれる。そして、それを成し遂げる力を神は与えてくれるということを意味しているのです。 「<span style="font-weight:bold;">主よ、あなたは私のともし火。私の闇を照らしてくださる。</span>」神との深い信頼関係が前提とされての言葉です。 もう一つ、詩編に記されています「<span style="font-weight:bold;">あなたの御言葉は、わたしの道の光  わたしの歩みを照らす灯。</span>」(119:105) あなたの言葉が私の道の光である。私の歩みを照らす灯である。光というものが単なる象徴の言葉ではなく、具体的に神の言葉を意味していると記されています。 神の言葉というのは、アブラハムやイサクやヤコブ達、又、モーセに示された契約の言葉であリ、又、預言者達に与えられた預言の言葉でした。今日の私達に関連して言うならば、光・神の言葉というのは私達が手にしている聖書の言葉でもあります。その神の言葉が、私達の歩むべき道を照らし出してくれる光である。光によって照らし出されるならば、進むべき道がどのような道かを判断することが出来る。時にはその道ではなくて別の道を選ぶように、と促されることもある。そんな聖書の言葉、まさに私達の歩むべき道の光である、ということを詩編の記者は語っているのです。 /n七枝の燭台の光  ゼカリヤに示された幻、七つの枝のある燭台の光は、「<span style="font-weight:bold;">武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって</span>」と主が語る。そういうことを私達に教えております。武力や権力によって成し遂げられることであったとしても、そうではなくて、「<span style="font-weight:bold;">主の霊によって</span>」なすのだ、と語りかけている。それが主から私達に与えられた御言葉でありました。 /n新約聖書における光  光というものは、旧約聖書だけではなくて新約聖書においても大事な役割として表現されています。二つほど新約聖書から光について選び出したいと思います。まず、光というものは神である。私達の心に存在する神そのものである。という言い方が記されています。 「<span style="font-weight:bold;">わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。</span>」(ヨハネ一1:5)「<span style="font-weight:bold;">『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。</span>」(コリント二4:6)と記されています。 神は光である。しかもその光は私達のうちに与えられている。神が私達と共にいる、ということが新約聖書のあちらこちらに記されています。神が光であり私達の歩むべき道を照らし出す。闇を照らし出す光であり、それが私達の内にあり、共に歩んでくれる、とするならば、もう一つの表現は、光が与えられている者は光にふさわしく歩むということも記されています。 「<span style="font-weight:bold;">あなたがたはすべて光の子。昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません</span>」(テサロニケ一5:5)。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい</span>」(エフェソ5:8)。「<span style="font-weight:bold;">『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお、闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません</span>」(ヨハネの手紙一2:9-10)。 そのようなことがいたるところに記されております。光を見つめるだけではなくて、光に照らし出されるだけではなくて、光が私達の内に存在しているわけですから、光と共に、即ち、神と共に歩む、というのです。 新約聖書の、このような言葉を読んでおりますと、もう一つ、私達が親しんでいる聖書の言葉を思い起こすのです。それは山上の説教において、イエス・キリストが語った言葉です。「<span style="font-weight:bold;">あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升(ます)の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである</span>」(マタイ5:14-16)。 光を、世の中に輝き照らす存在になれ、なっている、ということを言っているわけですが、私共がある意味では、神と共にある、そして神の言葉をわが内に入れている、ということは、「神、共にいます」ということである。そして私達は光として歩む。そのような言葉が旧・新約聖書に記されているのを見る時に、光を灯す燭台とは何かということです。 /n燭台は教会  光を灯すのが私達(神の光を得る)とするならば、その燭台は「教会」であると言えるかと思います。教会はイエス・キリストの体であると教えられています。世の光として私達が光り輝く。それは燭台と共に輝くといっても過言ではないと思います。ある意味で教会は、旧約聖書以来語られる七枝の燭台そのものではないかと今日、私共は思うのです。 /n「光としてある」とは・・  そのようなことを思う時に、光としてある、とは一体どういうことかということを、ローマの手紙の12章9節から読んでみたいと思います。 「<span style="font-weight:bold;">愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい</span>」。 /n強い光 この中で二箇所を特に「強い光」として心に刻みたいと思います。 一つは、「<span style="font-weight:bold;">怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。</span>」 もう一つは、「<span style="font-weight:bold;">できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。</span>」 このことを、今日の伝道所設立の記念礼拝の時に覚えたいと願うのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です