「主の御力と私たち」 伝道師 平賀真理子

/n[詩編]107編29-32節 29 主は嵐に働きかけて沈黙させられたので/波はおさまった。 30 彼らは波が静まったので喜び祝い/望みの港に導かれて行った。 31 主に感謝せよ。主は慈しみ深く/人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 32 民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ。 /n[マルコによる福音書]6章45-56節 45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。 53 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。 54 一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、 55 その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 56 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。 /nはじめに  今日の聖書は「5千人に食べ物を与えた」奇跡の出来事の直後の話です。ヨハネ福音書の記述では(6章)、群衆は、イエス様のその凄い御力を知り「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って熱狂しイエス様を自分達が思い描く「王」として担ぎ出そうとしました。しかし、そのような人々の興奮に巻き込まれることなく、イエス様はご自分のなすべき宣教と人々の救いの為に、一人、山に退かれました。私達の主、イエス様は実に祈りの人です(マルコ1:35、14:32-など)。イエス様の祈る場面に接する度に、いつも祈ることをおろそかにしている自らの姿を思い知らされます。イエス様に罪を赦していただき、主に倣う者として生きることを約束した私達は、イエス様に倣い、毎日の生活の中で神様に向き合う時間を確保しつつ、信仰生活を続けていきたいと思います。 /n逆風の中での弟子達の不信仰  イエス様から、舟に乗って向こう岸まで行くように言われた弟子達は、湖の真ん中まで来た時、逆風が吹いてこぎ悩み、大変難儀していたことが記されています。ガリラヤ湖は、どんなに悪天候でも6時間から8時間で渡り切る距離だそうです。夕方、湖の真ん中にあった船は、遅くても夜中の12時頃には岸に着いているはずでした。しかし夜が明ける頃(原語では午前3時から6時)まで船は嵐の中にありました。陸地に残られていたイエス様は、弟子達の窮状をご覧になり、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子達の所に来られました。これは「愛」の現れであると同時に、海の波をも制する御力を抱く、創造主なる神の御子としてのお姿でもありました。(旧約聖書では創造主としての神の御力を「海を制する力をもつ」ことでも表わした:詩編107:29-32、77編、ヨブ記9章など)。湖上のイエス様は、しかし弟子達のそばを通り過ぎようとされました。恐らくイエス様は、ご自身を示しながら弟子達が従って来ることを期待されたのでしょう。しかしイエス様のお姿を見た弟子達は、幽霊だと思って恐れて叫び「おびえ」(50節)ました。 /n「<span style="font-weight:bold;">安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。</span>」  五千人もの人々を満腹させたイエス様の奇跡を見て弟子達は、イエス様の、神の御子としての御力を体感していたのに、それでもまだイエス様のことを理解していなかったといえるでしょう。しかし、イエス様は「<span style="font-weight:bold;">安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。</span>」と言われました。そして、創造主の御力を持つイエス様が舟に乗りこまれると、波は制され、風は静まったのです。マルコ福音書4章で、弟子達は似たような経験を持っていました。しかしそれでも彼らは、まだわかっていなかったのです。弟子達のその姿は、私達信仰者の姿とも重なり合うのではないでしょうか。  困難な時、試練の時、その出来事だけに心を奪われ、主が私達を忘れずに見ていて下さることを、忘れることが多いのではないでしょうか。主が、助かる方へ導いて下さるのに、主にリードしていただくことを忘れていないでしょうか。 /n癒された人々は・・  湖を渡り終えゲネサレトという土地に着いて舟から上がると、一行を待っていたのはイエス様に救いを求める人々でした。イエス様の名前を聞くと、村でも町でも里でも、人々は病人の癒しを求め、病人を運んで懇願しました。イエス様は、ご自身の御力を信じることを表明する者には、憐みの心を持って癒しを与えられました。しかし病人を連れてきた人や癒された人達が、悔い改めてイエス様に従ったという記述はありません。彼らは自分の都合に合わせて「神様の恵み」のみを求め、自分自身は変わらぬまま、罪の世界にとどまっていたのではないかと思います。 /n「<span style="font-weight:bold;">悔い改めて福音を信じなさい</span>」(マルコ1:15)  イエス様によって救われ、新たにされた私達がまずなすべきことは、この世のやり方から決別し、方向転換する決意をすることです。これを「悔い改め」と言います。そしてより具体的な勧めの言葉がロマ書12章にあります「<span style="font-weight:bold;">・・心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、・・何が完全なことかをわきまえるようになりなさい</span>」。