「御心が行われますように」 牧師 佐藤義子

/n[箴言]16章1-3節 1 人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる。 2 人間の道は自分の目に清く見えるが/主はその精神を調べられる。 3 あなたの業を主にゆだねれば/計らうことは固く立つ。 /n[使徒言行録]21章1-16節 1 わたしたちは人々に別れを告げて船出し、コス島に直航した。翌日ロドス島に着き、そこからパタラに渡り、 2 フェニキアに行く船を見つけたので、それに乗って出発した。 3 やがてキプロス島が見えてきたが、それを左にして通り過ぎ、シリア州に向かって船旅を続けてティルスの港に着いた。ここで船は、荷物を陸揚げすることになっていたのである。 4 わたしたちは弟子たちを探し出して、そこに七日間泊まった。彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。 5 しかし、滞在期間が過ぎたとき、わたしたちはそこを去って旅を続けることにした。彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、 6 互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。 7 わたしたちは、ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、兄弟たちに挨拶して、彼らのところで一日を過ごした。 8 翌日そこをたってカイサリアに赴き、例の七人の一人である福音宣教者フィリポの家に行き、そこに泊まった。 9 この人には預言をする四人の未婚の娘がいた。 10 幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。 11 そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」 12 わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。 13 そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」 14 パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 15 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。 16 カイサリアの弟子たちも数人同行して、わたしたちがムナソンという人の家に泊まれるように案内してくれた。ムナソンは、キプロス島の出身で、ずっと以前から弟子であった。 /nはじめに  今日の聖書は、パウロ達一行の帰国の旅が、どのような経路を通って目的地エルサレムまで行ったのかが記されています。この旅で出会った人々や出来事を通して、ご一緒にいくつかのことを学びたいと思います。 /nティルスでのキリスト者達との出会い  ティルスには、かつてエルサレムの迫害から逃れてきたキリスト者達の伝道によって出来た群があったようです。パウロは、船が荷物の陸揚げの為に停泊していた一週間を利用して、キリスト者達の群れを探し出しました。そしておそらくいつものように、キリスト者達を教え、励まし、勇気づけたことでしょう。彼らは霊の導きによって、パウロにエルサレムへは行かないように繰り返し言いました。命の危険を思ってのことでしょう。  しかしパウロは、予定通りエルサレムに向かって出航することにしました。ティルスのキリスト者達はパウロ達の為に、家族ぐるみで町外れまで見送りに来て浜辺に膝まずき祈りを持って送り出しました。ここに、信仰によって結ばれた神の家族の麗しい交わりの光景を見ることが出来ます。 /nカイサリアでのフィリポとの出会い  ティルスから航海を続けてプトレマイスに着き、その翌日カイサリアに着きました。そこには伝道者フィリポの家があり、パウロ達一行は数日間滞在したことが報告されています。フィリポは、最初のキリスト教会の世話役として選ばれた、“霊”と知恵に満ちた評判の良い7人の一人でした(6章)。8章には、エチオピア女王の高官に伝道して洗礼を授け、その後、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行ったことが記されています(40節)。  パウロが訪れた時、フィリポには預言をする4人の未婚の娘がいました(21:9)。つまりフィリポはその後クリスチャンホームを築き、すべての子供達が父親のように、神様に仕える者として用いられていたのです。そしてパウロ達一行8名(20:4参照)に、彼らの滞在先として自分の家を提供したのでした。 /nアガボの預言  フィリポの家に、預言者アガボが来た時のことです。アガボはかつて大飢饉が世界中に起こると予告し実現しています(11:27-)。アガボはパウロに向かって、パウロがエルサレムで鎖につながれて、ローマ人に引き渡されると預言しました。これを聞いて、パウロを除くすべての人達がパウロのエルサレム行きに反対しました。  私達人間は、自分も愛する人達も、出来るだけ苦しみに合わないように、又、安全が守られて長く生きてほしいとの願いを持っています。それゆえ、パウロの命の危険があるとの預言を聞いて、放っておくことは出来ませんでした。しかしパウロは答えます。  「<span style="font-weight:bold;">泣いたり、私の心をくじいたり、一体これはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。</span>」 /n「<span style="font-weight:bold;">主の御心が行われますように</span>」  パウロは、エルサレム行きを危険だからという理由で断念することは、自分に与えられた使命をおろそかにすることであり、イエス・キリストに対して不誠実と考えたのでしょう。以前パウロは「私はエルサレムに行った後、ローマも見なくてはならない」と言いました(19章)。当時の世界の中心地ローマヘの宣教は、エルサレム訪問後の彼の使命であるとの確信があったのでしょう。パウロは、「命の安全」ではなく、今、与えられている「使命に忠実」であることを選びました。パウロの言葉を聞いた人々は「<span style="font-weight:bold;">主の御心が行われますように</span>」と言って口を閉じました。  主の御心は測り難く、人間の思いをはるかに超えています。「御心のままに」と祈る祈りは、私達を「自分自身への執着」から解放し、全てが「神様のご計画の中に置かれる確信」と、「委ねる信仰」を与えます。