「奇跡と熱狂」 伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]35章5-10節 5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。 6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。 7 熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。 8 そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。 9 そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み 10 主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。 /n[マルコによる福音書]7章31-37節 31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。 32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。 33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。 34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。 36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。 37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様が、故郷のガリラヤに隣接する都市をめぐって福音伝道の旅から戻って来られたところから始まります。ガリラヤ湖畔に戻られたイエス様を待っていたのは、イエス様の癒しの奇跡の噂を聞いたと思われる人々でした。今日の箇所では、人々が耳が聞こえず舌の回らない(話が出来ない)人をイエス様の前に連れて来て、手を置いて下さるように(癒しにつながる祈り)願い出ました。この時イエス様が初めにされたことは、この障がいに苦しむ人だけを群衆の中から連れ出すことでした。周りの人の思惑や、好奇心から隔離し、一対一で、面と向かって、心の交流をなさろうとしたのでしょう。 /nイエス様の奇跡  イエス様のなさる奇跡は、ほとんどがイエス様の発する御言葉によってなされています。しかし今回、いやしを求めている人は、耳が聞こえず、舌が回らない人です。イエス様の言葉を聞くことが出来ないこの人の為に、イエス様はご自分がなさろうとしていることを、動作をもって示されました。「<span style="font-weight:bold;">指をその両耳に差し入れ</span>」は、ふさがっている耳の穴をあける動作であり、「<span style="font-weight:bold;">つばをつけてその舌に触れる</span>」は、乾燥して固まって動かない舌を湿らせて柔らかくして動くようにされる動作、さらに「<span style="font-weight:bold;">天を仰いで</span>」は、父なる神様の助けを祈り求め、「<span style="font-weight:bold;">深く息をつき</span>」は、元々は「嘆く、ため息をつく」という意味を含んでいますので、イエス様がこの人の境遇に共感し、罪の世界の苦しみを嘆かれていることが分かります。そして最後に、「<span style="font-weight:bold;">エッファタ</span>」と言われました。これはイエス様が日常で使われていたアラム語で「開け」という意味です。イエス様が、この世の苦しみの世界を解放し、牢獄のようなこの世の門を、神の国に向かって「<span style="font-weight:bold;">開け</span>」と宣言されているのだとも理解出来ます。イエス様は神の御子としてこの世の支配者サタンと真剣な闘いをされ、奇跡を通してこの世への救いの道を開いていこうとされていたのです。 /n「話してはいけない」  イエス様の「<span style="font-weight:bold;">エッファタ</span>」との御言葉により、耳と舌に障がいを持った人は、たちまち耳が聞こえるようになり、話せるようになりました。この後イエス様は人々に「誰にもこのことを話してはいけない」と口止めされました。しかし人々は、「かえってますます言い広めた」とあります。なぜでしょうか。それは、自分は素晴らしい奇跡を見た!と自慢したい気持、その出来事に酔いしれたい気持が優先されたのではないでしょうか。人間は何かに熱狂したいものです。私達は、心の中に空しさを含む穴があると、何か手近なもので埋めようとします。その空しい穴は、本来神様が住まわれるところです。ところが人は、奇跡など強い感情を伴う出来事を体験すると熱狂し、すぐ人に伝えたいという感情に捕われます。「熱狂」は、一時的な感情で、彼らの中からイエス様に従う者や、十字架の裁判時にイエス様を助けようと働く者は出てきませんでした。「熱狂」に基づくイエス様の人気が大きくなることは権力者達を敵に回し、更には「神の国の福音」を広められるイエス様の働きを妨げることになったでしょう。「誰にも話してはいけない」とのイエス様の言葉に逆らって話すことは、人間の領分を越えて罪に陥ることです。アダムとエバが神様の禁止命令を守れなかったことから、人間は罪の世界への堕落が始まりました。イエス様が求めておられるのは「主の言葉に従う者」です。 /n耳と口  礼拝にはイエス様が共におられ、私達の賛美や悔い改めや、とりなしの祈りや、祈りに含まれる私達の苦しみや悩みも聞いておられます。私達の耳は、聖書を通して神様の御言葉を聞き、説教のみならず礼拝のすべてのプログラム(黙祷から祝祷・後奏まで)で、聖霊の働きを通して神様の声を聞くことができます。又、私達の口は、懺悔の祈りをささげ、賛美し、使徒信条を告白し、主の祈りを祈ります。耳と口はそのために与えられています。私達は心に「熱狂」ではなく「賛美と祈り」を据えて、今週も歩んでまいりましょう。