説教要旨「優れたいけにえ」東北学院大学 佐々木哲夫  

/n[創世記]4章1-7節 1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。 2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 /n[ヘブライ人への手紙]11章4節 4 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。 /nはじめに  本日の聖書の箇所は史上初の殺人、兄が弟を殺した出来事を記しています。殺人は、弟と比較された怒りによって引き起こされ、嫉妬心も絡んでいたと推測されます。神が、弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物には目を留められなかったということを告げています。自分の献げ物が顧(かえり)みられなかったことに、カインは激しく怒ったのです。カインは自分について思い巡らすことをせずに、期待していた反応を神が示してくれなかったことに腹をたて、その怒りのほこ先を、八つ当たり的にアベルに向けたのです。ずい分身勝手なことだと思いますが、私達の日常においても十分に起きうる出来事ではないかと思います。カインもアベルも神を信じていた者であり、献げ物を献げる信仰を有していました。その二人の間に一体なぜ殺人という悲惨な事件が起きたのか。聖書を読みながら ご一緒に考えたいと思います。 /n神がアベルに目を留められたことについての、さまざまな見解  カインではなく、アベルとその献げ物に主の目が留められたことの理由について様々な見解が提起されています。例えば、神様は穀物ではなくて羊の献げ物を好まれたとの見解です。これは農耕民族の周辺のカナン人ではなくて、牧畜をなりわい(生業)としていたユダヤ人の神であることを暗示する、そのことを示していると考える見解です。しかしそれは推測の域を脱しない見解であると思います。別の見解は、出エジプトの時に神が示された価値観(人であれ、家畜であれ、全ての初子は神のものであるとの価値観)に対してアベルはそれに適ったと考えるのです。これも推測の域を脱することは出来ません。更なる見解として、弟が長男にとって代わるというモチーフが投影されたという説明です(例えば、兄エサウではなくて弟ヤコブに祝福が与えられたこと。長男のエリアブではなくて弟のダビデに油が注がれ王として選ばれたこと。新約聖書では、弟の放蕩息子の方が大事にされるような状況に兄が怒ったという、先のものと後のものとが逆転するテーマがこのカインとアベルにおいても表れている)。いささかこれは乱暴な見方であると思います。 /n不条理  どの見方をとるとしても聖書の説明自体は、明示的ではありません。ただ結論として、「<span style="font-weight:bold;">もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。</span>」(7節)と結果論的に記すだけです。原因と結果の連鎖が不明瞭な出来事というのは、私共の中にしばしば起きます。すなわち不条理と思われるような現象です。正しいことをしているのに正しい結果が与えられない。正しい者が苦しい目に会う。どうしてか。原因と結果が、連鎖が逆になっているというような問題です。「ヨブ記」や「コヘレトの言葉」の主題となっているものです。 /n不条理に対しても、顔を上げて生きる生き方  この不条理に関して、神様の取り扱いに対して、どうしてこんな事をするのだと異議を感じて八つ当たり的に鬱憤(うっぷん)晴らしをするということではなくて、不条理においても尚、罪が入り込む余地を与えず、あくまでも正しい道を歩む信仰。顔を上げて生きる生き方というものが教えられているということで、この箇所を読むことが強いられるのです。 /nヘブライ人への手紙  創世記のこの箇所だけに限定しますと、見解はそこ迄であるとしても、新約聖書の解釈はさらに踏み込んだものとなっています。 今日お読みしたヘブライ人への手紙11章4節に目を転じたいと思います。ヘブライ書の著者は「<span style="font-weight:bold;">信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。</span>」と説明しています。  キーワード的に二つの言葉をあげるならば「<span style="font-weight:bold;">信仰によって</span>」と「<span style="font-weight:bold;">優れたいけにえ</span>」です。ヘブライ書の著者はこの二つを創世記に加えて説明しています。一体これは何を言おうとしているのでしょうか。 /nアベルは「優れていたもの」を献げた   カインもアベルも信仰を有し、尚、献げ物さえしました。しかし新約聖書は「アベルは信仰によって献げた」と語るのです。即ち、「ただ献げた」というのではなくて「信仰をもって献げた」と記すのです。その献げ物は「優れたいけにえであった」と記していますから、どのような点においてかと問いたくなります。「優れた」の訳語を直訳すると「大きい・多い」と言う意味ですが、アベルの方が沢山・大きい物を献げたという外側の意味ではなくて、内的な質的な意味において大きい・多いという意味です。日本語で「優れていたもの」を献げたということです。それにしても一体なぜ「優れたもの」になるのかという疑問は晴れないのではないかと思います。そのような時には、しばしば、他の聖書箇所を参照しながら解釈し読んでいきますので、私共も今朝は、他の二箇所を参照しながらこの箇所を理解していきたいと思います。 /n献げること以上に大切なこと   最初はサムエル記上15章22節の、預言者サムエルのサウル王への言葉「<span style="font-weight:bold;">サムエルは言った。『主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』</span>」です。サウル王は「いけにえを献げる」という行為こそが大事であると考えていたのですが、サムエルは、そうではない。献げ物やいけにえ以上に大事なことがある。それは、「<span style="font-weight:bold;">主の御声に聞き従うこと</span>」。そのことが、むしろいけにえよりも勝るという価値観を伝えた箇所です。 もう一箇所は、詩編51編18節-19節です。これはダビデの言葉です。「<span style="font-weight:bold;">もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを献げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。</span>」 神が求めるのは「献げ物」というよりは「打ち砕かれた心」、「悔いる心」。それを神は求めておられる。「謙虚な心で献げる」ということが大事であるということです。この箇所から分かることは「献げ物」というのは、献げることを機械的に行うのではなくて、献げる人の心、換言するなら神の言葉に聞き従う謙遜な心が伴わなければならないということが、すでに旧約聖書の時代に示されていたということです。 引用した二つの箇所は決して献げ物を否定しているわけではありません。「献げる」習慣は、その後も旧約聖書において継続されており、むしろ献げることは勧められております。しかし献げるということ以上に大切なことがある。サウルもダビデも献げ物を献げてはいたのですが、自分の欲や名誉を優先させたということを問題としている。そのようなことでは、献げても献げたことにはならないということでした。 /n神は献げる人と献げられた物を見られる  創世記では、神はカインとカインの献げものを見た。そしてそれに目を留めることはなかったのです。「献げ物」ではなくて「献げる人と、献げられた物」を見たということですので、まさにその献げ物がどのような心をもって献げられたか、ということが大切だということになりましょう。ヘブライ書は逆説的に、アベルの献げ物が信仰によって献げられた、優れた献げ物だったと表現したというのは、まさにそのようなことを反映しているのです。 /n信仰によって献げる信仰者  さて今日においても、私達も主に献げ物を携えてきます。例えば時間を献げ、奉仕の業に参与いたします。又、献品や献金を献げます。ある人は生涯を献げる献身をいたします。さまざまな献げ方があります。 しかしそれらは、外側の大きさ、種類で優劣が決まるのではなくて、その中身の大きさこそが大切なのです。すなわち主の言葉に謙遜に聞き従う心を伴った献げ物であるべきだ。そのような献げ物に主の目が留まる。喜ばれるということです。特に「献げる」ことを覚える本日の礼拝において、私達は信仰によって献げる信仰者でありたいと願うものです。