「十字架を負って」  伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章4-10節 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 /n[マルコによる福音書]8章34-9章1節 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 /nはじめに 「メシア(救い主)」については、ペトロや他の弟子達もユダヤの民衆までが政治的に自分達を自由にしてくれる救い主であり、その方は栄光の姿で現れると思い込んでいました。しかしイエス様が弟子達に語られた「メシア」の姿は全く逆でした。人々の罪を代わりに負い、苦しみを受け、殺されるという惨めで辛いものであり、それを「メシア」が従順に行うことにより「人類を罪から救い出す」という神様のご計画が成就するのです。今日読んだイザヤ書にその事が書かれています。 神様が人々の罪を赦す為に、なぜ「贖(あがな)い」としてメシアを悲惨な姿で殺すという方法を取られたのでしょうか。それについてある神学者が、讃美歌262番の解説の中に書いていたのでご紹介しますと、 「…つまりイエスはみずからを、神よりのメシアとして、ここで果たさなければならない なにものかを果たしたのです。…人間の罪は神の律法によれば死に値するものであって、神の律法は罪に対して死を要求しているのです。……キリストが十字架上で、その受難と死によって、罪に対する神の律法の要求を果たしてくれたので、人間は、罪とその呪いから解き放たれて救われたのです。そしてそのすべてが神よりの恩恵として与えられている。これが十字架の救いです。」 /n人間の罪は神の律法によれば死に値する。 神様が私達に与えられた律法は、神様を第一に考えて神様を全身全霊で愛することと、隣人を自分のように愛することです。この二つの事を守れない者は死に値するのです。私達は「罪に対しては死を持って償(つぐな)うことを要求される」という事実を忘れがちではないでしょうか。 私達は目覚めている時間の多くを神様と対話(祈り)しているだろうか。御言葉の学びに時間を注いでいるか? さまざまな出来事に、神様への感謝や賛美を捧げているか? 最も近い隣人である家族や、親友や恋人を尊重して大事にし続けているか?困難な状況にある人を、自分の気分ではなくその人を主体に考えて援助しようとしているか?・・などの問いに、この一週間だけでも心に一点の曇りもなく「出来ている」と言える方は恐らくいないでしょう。「出来ていない」人は全て律法の違反者です。それは「罪」であり、「死」をもってしか償(つぐな)えません。 /n神様の赦し  神様は、その人間の罪過すべての責任を、最も愛する御子イエス様に負わせ、「死」をもって償(つぐな)わせ、人類の律法違反を赦されました。人間の中で最も惨めで低い立場に御子を置かれたのです。にも拘わらずイエス様は、神様の救いのご計画に従ったことで、神様から「復活」の勝利を与えられ、天に上り父なる神様の右に座するという栄光を授けられました。「低くされたのに、高くされた」(イザヤ52:13-15)のです。 /n<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って</span> 自分を捨てるとは、自分を忘れて、とも訳せます。主に従うことを第一に思い、自分の欲求を忘れられるかどうかが問われています。「自分の十字架」とは、キリストと共に十字架を負う精神、苦難そのものです。十字架刑は恥辱と最高の苦痛を与える刑罰でした。罪を贖(あがな)う「メシア」は「最高の苦しみを受け耐え忍ぶ」ことで、神様のご計画を成就せねばなりませんでした。 主に従いたい者も、そのような最高の苦しみを耐え忍ぶ覚悟を持つことが要求されています。 /n<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか</span> 神様に創られた命は永遠の命を持っていましたが、罪が入り込んで、生まれたままでは永遠の命を受けられなくなりました。「自分の命」を買い戻すのに払う代価が、イエス様の流された贖いの血です。主が受けられた苦難は、本来私達一人一人が負うべき苦難でした。今日から始まる受難週を、「自分の十字架を負って主に従う」者として歩みましょう。