「山上の変容」    伝道師 平賀真理子

/n[マラキ書]3章19-24節 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。 /n[マルコによる福音書] 9章2-13節 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」 /nはじめに 「山上の変容」という題は、何のことか想像しにくいと思いますが、「イエス様が高い山で姿を変えられた」出来事をいいます。その高い山に、イエス様は、核となる三人の弟子を連れて何かをなさろうとしていることに思いを巡らせてみたいと思います。 /n変容 「変容」とは、イエス様の姿が「変わり」(2節)から取られている言葉で、外見だけでなく中身も変わることです。 「服は真っ白に輝き(3節)」となっていることから、イエス様が「神的存在」になっておられると理解できます。更に「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた(4節)」とあります。ユダヤ人にとって、モーセは「律法(十戒を含む)」を意味し、エリヤは「預言者」を意味します。「旧約聖書」のことを「律法と預言者」とも言いますので、イエス様がここで、「旧約聖書の完成者」となったことを証ししていると言えるでしょう。同じ内容の、ルカ福音書9章によれば、モーセとエリヤは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)とあります。直前にはイエス様ご自身の、「死と復活」の預言がありますから、今日の聖書箇所でも、「メシアは苦しみを受け、人々の罪の贖いの為の死を遂げる」ことを三人で話し合っていると読み取ることができるでしょう。  七節では、雲の中から父なる神様の、「死を遂げる」覚悟を決めたイエス様を祝福するかのように声がします「これは私の愛する子、これに聞け」と。イエス様と共に高い山にいた弟子達は、イエス様によって、霊における感覚が開かれ、幻のような天の啓示の出来事を見聞きします。  このことを理解する為に、外国語が分かる人とそうでない人の場合を考えてみます。外国語が分かればその意味を知り、新しい情報や世界が得られます。分からなければ、言葉は単なる音でしかなく、そこに意味はありません。山上の変容という「幻」のような出来事も、それを受信できる者と(例えば、パウロの回心の時のように・・サウル、サウルと呼びかける声を聞いた)、出来ない者(同行していた人達は、ものも言えずに立っていた)に分けられているのかもしれません。ですから、「この出来事=幻」と拒絶せずに、この出来事の意味を理解していきたいと思います。 /n理解して信じて聞き従う イエス様と共にいた弟子達は、この出来事の証人となる恵みを受けていますが、意味は理解せず恐れの中にいました(6節)。弟子達は直前にイエス様が語られた、「苦難の僕」の道をイエス様が歩まれる、ということを理解し、受け入れることが求められ、神様から「これに聞け」との言葉に従うことが求められていたのです。「これに聞け」は、ただ声を聞くだけではなくて、「聞き従え」ということです。「理解して信じて聞き従う」・・これがメシアであるイエス様の歩みに対して弟子達に求められたことでしたが、弟子達には難しいことでした。 /n「復活まで、今見たことを誰にも話してはいけない」 イエス様はこの山上の出来事を、他言することを禁じられました。 イエス様はご自分が、「苦難の僕(イザヤ書53章)のメシア」であることを知り、それは出来れば避けたいと思われるほど苦しく辛いことでしが、父なる神様のご計画に、従順に従うことを決意されておりました。ところが弟子達がその事を理解しないまま「山上の変容」の出来事だけを伝えるならば、イエス様を「栄光のメシア」としてのみ期待します。復活の後であれば、「苦難の僕」が「死に勝利する栄光」を得られるので、初めて、メシアの受難の意味が理解できるようになるからです。 二千年後の私達は、この意味が解き明かされ、真実が知らされています。今だからこそ私達はイエス様の御言葉を「理解して信じて聞き従う」信仰の歩みを進めるように、聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。