「主として受け入れる」    伝道師 平賀真理子

/n[詩編]25編12-21 主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。その人は恵みに満たされて宿り/子孫は地を継ぐであろう。主を畏れる人に/主は契約の奥義を悟らせてくださる。 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。 御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。 悩む心を解き放ち/痛みからわたしを引き出してください。御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。 御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。 御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し/恥を受けることのないようにしてください。 あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら/そのことがわたしを守ってくれるでしょう。 /n[マルコによる福音書]9章30-37節 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 /nはじめに イエス様一行は、フィリポ・カイサリア地方から南の方に移動を始められました。フィリポ・カイサリアは、ペトロが初めてイエス様を「救い主」と告白した場所です。その事でイエス様は、神様の大事なご計画「神の御子が多くの苦しみを受け、殺され、三日後に復活する」ことを、弟子達に明かされました。「イエス様の十字架と復活による人類の救い」が、いよいよ具体的に動き始めてきたのです。 /n弟子達の無理解 その道中で、イエス様は弟子達にご自分の「受難の死と復活」について二度目の預言をされ、「(わたしは)人々の手に引き渡され、殺される」と付け加えられました。それでも弟子達はイエス様が「苦難の僕としてのメシア(救い主)」であることを理解せず、イエス様は「ダビデ王のような栄光のメシア」であるとの先入観の中にとどまっていました。「イエス様は、神様への従順を通して復活という栄光を得られる」との奥義を理解した弟子は一人もいませんでした。さらに誰ひとり「詳しく教えて下さい!」と頼むこともしませんでした。「弟子達はこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(32節)からです。 <当時の弟子達だけでなく、私達も又、主の御心が分からないといって、ただ恐れるのでは、その距離は広がるばかりではないでしょうか。> 弟子達が、カファルナウムにある家に到着するまでの間、議論していたことは、仲間内で誰が一番偉いかということでした。「何を議論していたのか」とイエス様に問われ、弟子達は答えられませんでした。それが主の御心に添わないことだと分かっていたからです。 /n「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える人になりなさい。」 そこでイエス様は、再び神の国の人間の価値について教えられました。 神の国は神様が共におられる世界です。神様の愛は、弱い者や力のない者に注がれます。そして打ち砕かれ、へりくだる霊の人にご自分の命を得させると語られます。(イザヤ書57:15)。 イエス様は、一人の小さな子供を弟子達の前に立たせ、抱き上げて言われました「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。 子供は社会的に見て、最も弱く、力のない存在です。この世の損得や、大人の目線で考えれば、子供を受け入れることは損を被ることになります。しかし神様の目では、子供は最も愛すべき歓迎すべき対象であり、喜びです。 「わたしの名のために子供を受け入れる」とは、イエス様の十字架と復活を通してイエス様が贖い主であられることを知った上で、弱さ、不利益を抱える者を受け入れることです。それは、「苦難の僕としてのイエス様」を受け入れることであり、同時に、イエス様を遣わした父なる神様を受け入れることでもあります。 /n受け入れる 「受け入れる」という言葉は「ウェルカム」という歓迎の意味を含んだ言葉です。 私達はイエス様を「主」として歓迎しているでしょうか?生活の中心として仰いでいるでしょうか? イエス様が子供を抱き上げられたように、その弱さ・小ささ・無力さゆえに子供をいとおしんで大事にすることこそ、「主」を「主」として歓迎して生きることになるのでしょう。 神の国の民として、ふさわしくへりくだって生きる者とは、主に救われたことを感謝して生きる者です。 日常生活において、イエス様より自分自身の欲望を歓迎して受け入れてしまった時は、神様の前に懺悔し、変えていただけるように、特に礼拝の中で祈り求めていきましょう。 今週も、聖霊の助けを祈りつつ、本当の弟子の道を歩んでまいりましょう!