「招待を軽視する客」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]9章8-13 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださるように。主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない。 /n[ルカによる福音書]14章15-24節 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」 /nはじめに 今日のルカ福音書14章1節に、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。イエス様は時々、食事に招待されて、いろいろな話をされたり、時には病人を癒されたことが聖書に伝えられています。当時ユダヤ教においては、巡回する教師を、特に安息日に食事に招くことは一つの功績とみなされていたそうです。この日の招待者は「議員」ですから、社会的にも地位は高く、裕福であったと想像されます。 ただ「人々はイエスの様子をうかがっていた」とありますから、同席した人達は、イエス様を愛して信頼していたというよりも、イエス様を観察し、何かあれば議論するような雰囲気があったのではないかと思われます。 /nイエス様の教え  イエス様はここで、招待客が上座に座りたがっているのをご覧になり、人から招待されたら末席に座るように教えられました。上座に座りたいという願望は名誉欲です。自分を人より高く置こうとする欲望は、空しさと危険が伴います。名誉は自分の力で自分のものにすることが出来ず、ただ受け取るのみです。イエス様は「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)と教えられます。もしも私達が高くされることがあるならば、それは神様によって高くされるのであり、神様が下さる恵みに依り頼むことを知っている者がそれを受けるのです。 /n「招くなら、お返しが出来ない人を」 次にイエス様は、招待主に、「招くなら、貧しい人、身体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と、言われました。その理由は、「その人達はお返しが出来ないから、あなたは幸いだ」ということです。招待とは、招いた人々に、無限に恵みを与えることにあります。そうするならば、終末のその時、天国で報われるからです。 /n祝宴にあずかれるという過信 客の一人が「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう」と言いました。神の国は、旧約の時代から、神様がご自分に属する者達のために備えた祝宴として考えられていたからです。彼は神の国の食事の席に、自分も招かれていることを確信していました。しかし、彼の言葉に対して、イエス様は譬えをもって、多くの人達が神の国の食事にあずかろうとするけれども、そこに入ることは出来ないと教えられました。 /nイエス様のたとえ話 譬えは、主人が盛大な宴会を催そうとして大勢の人を招いたけれども、招かれた人は出席を断り、代わりに招かれなかった人々によって宴会の席は満たされるという話です。当時、宴会は習慣的に招待が二度告知されました。一度目は予告、二度目は当日『準備が整った』との知らせです。すでに招かれている人達は当日になると、自分の買った畑を見に行く、牛を買ったので調べに行く、新婚だから、などの理由で招待を断りました。自分の財産と幸せを優先させ、招待主が用意したものを軽視したのです。主人は大変怒り、町の広場や路地へ行き、貧しい人や体の不自由な人などを招き、通りや小道からも人々を連れて来させました。 /n神の国で食事をする人 主人は神様。しもべはイエス様。最初の招待客は選民ユダヤ人。そして食事の席についたのはユダヤ人が日頃、軽蔑していた異邦人(私達日本人も異邦人)です。イエス様は、私達に神の国について知らせ、入る道を示し、招いておられます。それは、御子イエス様を信じ、神様に対する不従順を悔い改め、イエス様の教えに従って生きることです。 「今日、あなた達が神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心を頑なにしてはならない」(ヘブル書3:15)。 「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(?コリント6:2)。