「一匹の羊」    牧師 佐藤義子

/n[詩編]23編1-6節 1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い 3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。 5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。 6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。 /n[ルカによる福音書]15章1-10節 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 /nはじめに 今日の聖書の直前には、「聞く耳のある者は聞きなさい」とのイエス様の言葉があり、そして1節に、徴税人や罪人が、皆、話を聞こうとしてイエス様に近寄ってきたとあります。彼らは、ユダヤ人社会から疎外された人達でしたが、イエス様の話を聞く為にイエス様に近寄ってきたのです。それに対して2節では、ファリサイ派の人々や律法学者達が自分達の社会が相手にしないような人達をイエス様が受け入れて、交わっていること、さらに食事なども一緒にしていることを批判し、不平をつぶやいたのです。 /nファリサイ派や律法学者の立場 彼らは、旧約聖書で教える神様の義(神様が教える正しさ)に従うことにおいては忠実でした。自分の良心にかけて、真理であることに熱心でした。(私達のように、頭でわかりながらも妥協の多い生き方-たとえばウソも方便など-をしている者達に比べたら、比べものにならないほど、自分に厳しい生き方をしていた人達が多かったのだろうと推測いたします。) 自分が正しく生きることに熱心な人は、そうでない人に対して、見方は厳しくなります。なぜなら自分は自分の本能や欲望に対して戦い、節制をし、努力をしているのに対して、彼らは努力せず、自分の気持と戦うこともせず、律法に無頓着で、思うまま好きなように生き、その結果、失敗し、困難に陥り、疎外されても、それは自業自得だと考えるからでしょう。   イエス様が彼らを受け入れることは、彼らの生き方を肯定しているようで、そのような態度が、ユダヤ人社会の規律を乱し、律法の権威を落としめ、又、罪人や徴税人の生き方でも良い、という空気を生み出すことを懸念したのかもしれません。 /nイエス様は求める人々を拒まれない しかしイエス様は、「今、現在、あなたは罪人だから、徴税人だから、」ということで、心を閉じることはありません。どのような人であろうとも、「イエス様の話を聞きたい」という気持さえあれば、いつでも心を開いて迎え入れました。 ところが今日の箇所では、徴税人や罪人達に向かって話しているのではなく、ご自分を批判、非難しているファリサイ派や律法学者の人達に向かってイエス様は語られています。 /n一匹の羊 ルカによる福音書15章では、イエス様は三つの譬え話をされています。 最初の譬えは百匹の羊を飼っている人が、一匹の羊を見失った話です。羊飼いは、羊が狼などに襲われるのではないか、岩山に足をすべらして谷底に落ちるのではないか、と、必死で探しまわります。そしてついに見つけたなら、待たせている99匹の羊と共に、見つけた羊を担いで、羊の囲いまで連れ帰り、見つけた喜びを自分の喜びだけにせず、友達や近所の人を呼び集めて分かち合うのです。   /n「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。   神様を信じて神様に従うことで、人は初めて人として正しく生きることが出来ます。しかし人間は、アダムとエバ以来、罪をもって生まれ、罪の中に生き、神様から離れて、自分を神とする生き方をするようになりました。そこで神様はイエス様を遣わし、人間はイエス様を通して神様とつながって生きることが出来るようになりました。本当の神様から離れた生き方をしている者は「失われた魂」、すなわち羊飼いから離れて自分の思うままの道に迷い出た羊です。羊は羊飼いと一緒にいて初めて、良い牧草地や水辺に導かれ、更に、狼や、岩山からの危険からも守られるのです。私達は、羊飼いから離れないでいる羊でしょうか? /n大きな喜び   見失った羊を見つけ出した羊飼いの喜びが大きなものであるように、神のもとに立ち帰る一人の人が起こされるなら、天において大きな喜びが起こります。律法学者やファリサイ派の人々も、共にこの大きな喜びにあずかるようにと、イエス様は譬えをもって招かれたのです。イエス様が来られたのは、失われた者を捜して救うためであるからです。