「弟子と味方」   伝道師 平賀真理子

/n[レビ記]2章13節 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。 /n[マルコによる福音書]9章38-50節 38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」 42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。 44 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 46 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。 49 人は皆、火で塩味を付けられる。 50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」 /nはじめに 今日の聖書では、イエス様の名前を利用して悪霊退治をしている人に、弟子のヨハネが、止めさせようとしたことをイエス様に報告をしています。止めさせた理由は「私達に従わないので」(38節)です。 「私達」とはイエス様がリーダーの「弟子達グループ」であれば良いのですが、イエス様抜きの「弟子達」であればかなり問題です。つまり「自分を高くして、他人を貶(おとし)める」という謙遜やへりくだりとは逆の、過去の過ちの繰り返しです。自分達のようにイエス様に人生全てを賭けて従う者だけが弟子であり、そうでない者は仲間に入れない。神様の恵みが彼らに与えられるのを喜べない者は、神の国の民としてふさわしくないのです。 /n「私達に逆らわない者は、私達の味方なのである。」(40節) イエス様の名前を使うことをやめさせようとしたとの報告を聞いたイエス様は、「やめさせてはならない」と言い、彼らは、悪霊退治をした後、すぐにイエス様のことを悪く言えず、彼らは味方である、と弟子を忍耐強く諭されました。更に具体例として「あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」と言われています。神様の救いのご計画に何らかの働きがあった者は、神様の豊かな恵みから漏れることはありません。わずかな知恵しか持たない人間は、神様の知恵に到達することは出来ません。神様の救いのご計画に、「味方」と言われる人々のわずかな働きが、人間が思う以上に価値のある働きをするのかもしれません。神の国の為の働きの報酬は、主人である神様がお決めになることで、人間の限りある判断で、救われる可能性のある者を排除してはならないのです。 /nつまずかせる イエス様の価値を知り、その弟子の為に行動する者を、イエス様は、「私を信じる小さな者」(42節)と言われます。「信仰の幼い者」と言い換えることも可能でしょう。その者はやがて信仰において成長し、神の国の民として立派な働きをすることになるかもしれません。  一方、この世的な価値基準を捨て切れていないのが弟子達です。弟子達は、イエス様の教えが分かっておらず、「神の国の民」とは言い難く、そのままでは、将来のある信仰の幼い者達のつまずきになるという危機感がイエス様にはおありだったのでしょう。「つまずかせる」ことは、神様の前で、きわめて、責任の重い大罪です。 /n「片方の手が(足が・目が)つまずかせるなら・・」(43節ー) 手、足、眼。どれも人間に罪を犯させるきっかけになる感覚や手段になったりします。イエス様は、体が完全でも、罪に陥って永遠の命にあずかれない(神の国に入れない)よりは、大事な体の健全さを失っても、永遠の命に与る(神の国に入る)ほうが素晴らしいことだと言われます。 自分自身をつまずかせる罪に対する罰は、「地獄の消えない火の中に落ちる」です。旧約の世界では、神からの裁き、徹底した「滅び」です。 /n「火で塩味を付けられる」(49節) ここでの「火」は、神様の御性質を表す具体的な事象と言えるでしょう。「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神」とあります。又、預言者イザヤが召命を受けた時、炭火で唇を清められ、それ以降、神様の預言を語る者とされました(イザヤ書6章)。「火」は、神様の莫大なエネルギーを示すものとして、更に、人も物も全てを清める力を表すものとして象徴的に使われます。 /n「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50節) 「塩」とは、「救い主イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」と言えるでしょう。それは、どんな時にも主イエスを救い主と信じ、そのために働くことを感謝する信仰と、その信仰への神様の祝福と言えるでしょう。そうであるなら、恵みが広がるように、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように」(エフェソ3:17)と、未だ弟子になる決意を与えられない「味方」の人が、聖霊によって変えられるように祈っていきたいと思います。