「律法を完成される方」 伝道師 平賀真理子

/n[申命記]10章 17-22節 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。 /n[マルコによる福音書]10章 17-31節 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 /nはじめに 今日の新約聖書は、二つの段落に分かれています。前半部は、金持ちの男の質問で、二つのことが問題となります。一つは、イエス様に対して「善い先生」と呼びかけに使った「善い」という言葉です。イエス様は「善い者」は神様お一人だけに当てはまる言葉であると彼を諭します。この金持ちの男は、「神様」を大事にしていると言いながら、実は、自分が有利になることで頭が一杯です。 /n金持ちの男の質問 もう一つは、「永遠の命を受け継ぐには何をするべきか」との問いについてです。聖書では、「永遠の命を受け継ぐ」と「神の国に入る」は、ほとんど同じ意味と捉えられています。罪に陥った人間を救ってくださったイエス様につながることで、「永遠の命が与えられる」=「永遠の命を受け継ぐ」と考えられています。 又、イエス様の十字架と復活の出来事によって、神様とつながることが可能になりました。神様の性質を受け継ぐことができ、神様の愛に満たされて過ごすことが出来る世界に入ることを「神の国に入る」と言います。 /n神の国に入る条件 イエス様は金持ちの男に、神の国に入る第一条件を示されました。それは、ユダヤ人なら誰でも知っている「十戒」の後半部分を守ることです。それを聞いた彼は、「そういうことはみな、守ってきました」と答えます。イエス様は彼をみつめ、慈しんで言われました。「欠けているものが一つ」と言われ、要求されたのは「持っている物を売り払い、そのお金を貧しい人々に寄付すること」で、その後で「イエス様に従う」ことでした。 「金持ちの男」は、このイエス様の招きに従いませんでした。彼は「永遠の命」を受け継ぐことに関心があり、イエス様に走り寄って質問したにもかかわらず、最終的には行動しませんでした。それどころかイエス様の指示に気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。 /n神様の愛 神様は、この世で弱い立場にある者を愛される方です。今日の旧約聖書(申命記)では、そういう人々の代表として、孤児、寡婦、寄留者(外国人)が挙げられています。彼らの人権、必要な食べ物や衣服への配慮が明確に記されています。弱い者を愛される性質、彼らに心を配り、助けようと行動される性質、それこそが、私達をも捉えて下さった神様の真髄です。イエス様が愛情を懸けられたのは、全て弱い立場にあった民衆や心身の障害を抱えた人々、障害ゆえに差別を受けていた人々でした。イエス様は、神様の本質を教えられ、福音の為に全身全霊を傾けられ、「律法を完成させる」という御自分の使命にあった答えをされたのです /n「人間にできることではないが、神にはできる。」(27節) 「金持ちの男」は、弱い(貧しい)人を愛するという神様の御性質に倣って、神の御子に従うという内容が、自分の欲求に合わず立ち去りました。 イエス様は、愛情を懸けたこの「金持ちの男」が離れていく様を見て、富に対する人間の執着が、神の国に入ることを阻止していると指摘されました。富だけでなく、人をこの世に縛るのは、安易な愛情、名声、簡単に手に入る楽しみなどが考えられます。その未練を捨てることの難しさは、「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」ほどです。「金持ちの男」が求める、この世に合わせた基準や、悔い改めのないまま、神の国に入ることは絶対に無理であり、「人間にできること」ではありません。 悔い改めは、自分中心の生き方から神様中心に生きる生き方に方向転換することです。 この世の執着を捨てることは「出来ない」と考えている人間でも、悔い改めをもって真剣に救いを願うならば、「何でもお出来になる神様」は、どのような者でも「お救いになることが出来ます」。 「世界の主権は神様にある」ことを再確認し、そのような神様に、私達は眼を懸けていただいている、その恵みに感謝して歩みたいと思います。(後略)。