「正しい服従」   牧師 佐藤 義子

/n[出エジプト記]23章10-13 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。 /n[ルカによる福音書]14章1-6 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」 彼らは、これに対して答えることができなかった。 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様がファリサイ派のある議員の家で、安息日の祝いの食事に客人として招待された時のことが記されています。1節の終りに「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。うかがうとは、悪意ある目で偵察するという意味があります。イエス様の食事の席の前に、水腫をわずらった人がおりました。水腫とは異常な分量の組織液やリンパ液が体内にたまる病気で、エルサレムには多く見られたといいます。人々がうかがっていたのは、その水腫の病の人に対してイエス様が癒そうとなさるか、それとも安息日の規定に従う(=何もしない)か、ということでした。イエス様は、当日の招待主をはじめ、そこに招かれた人達が、どのような気持でご自分を見ていたのかを、全て見通されていました。そこで、イエス様の方から彼らに質問しています。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」</span>と。 /n沈黙 当時の考え方からすれば、病気を治すのは仕事のひとつとされ、安息日に働くことは禁じられていましたので、治療のたぐいは、してはならないことでした。(命に危険が及ぶ場合には、何らかの処置をとることは認められた)。 イエス様からの質問に対して、「彼らは黙っていた」(4節)とあります。6章では、イエス様が安息日に手のなえた人を癒した時、ファリサイ派の人達が怒り狂って、イエス様を何とかしようと話し合ったと記されていますから、ここでも彼らは、イエス様が律法を破るのではないか、もし安息日の規定を破ってこの水腫の人を癒すならば、自分達はその証人として訴え、社会から追放しようという思いがあったのではないかと想像されます。 /nイエス様は安息日でも癒された イエス様の質問に、その場にいた律法の専門家もファリサイ派の人々も沈黙を守り、答えようとしなかったので、イエス様は病人の手を取り病気を癒してお帰しになりました。ご自分の問いに、実践で答を示されたのです。 「律法では、安息日であっても病気を治すことは許されている」という根拠として、イエス様は、<span class="deco" style="font-weight:bold;">「もし、あなた達の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」</span>と、彼ら達の現実を取り上げました。人々は、自分の家族や飼っている動物の為なら、安息日であっても労働禁止条項を気にすることなく無条件で助けていたからです。 今、イエス様が、目の前の水腫をわずらったこの人を助けることはそれと同じであることを語られたのです。 /n律法の精神  神様の意志の表れである「律法」の精神は、究極的には「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことです。 しかしこの日集まっていた人達は、自分自身の延長線上にある家族や財産は、安息日規定を越えて助ける(愛する)けれども、それ以外の他者に対しては「安息日遵守」を要求し、他者が労働禁止条項を破ることには神経をとがらせていることをイエス様は指摘されました。 /nイエス様は安息日の主   私達も又、律法の中心である「神を愛し、隣人を愛する」ことを戒めとして与えられております。 私達はこの戒めを守りたいと願っています。 安息日は神様の日であり、恵みの日であり、喜びの日です。 神様を愛する者は、神様が望んでおられるように安息日をも過ごしたいと願うでしょう。   イザヤ書にはこのように記されています。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「安息日に歩き回ることをやめ    <span class="deco" style="font-weight:bold;">  わたしの聖なる日にしたいことをするのをやめ   <span class="deco" style="font-weight:bold;"> 安息日を<span class="deco" style="font-weight:bold;">喜びの日と呼び </span> </span> </span>  <span class="deco" style="font-weight:bold;">主の聖日を尊ぶべき日と呼び     <span class="deco" style="font-weight:bold;"> これを尊び、旅をするのをやめ</span> </span>     <span class="deco" style="font-weight:bold;">したいことをし続けず、取引を慎むなら  </span> <span class="deco" style="font-weight:bold;">そのとき、あなたは主を喜びとする。」(58:13)</span> </span>     私達は、毎週日曜日を「安息日」として守り、過ごしています。 イザヤ書にあるように、私達は日曜日を他の日と区別し、礼拝を捧げる日として尊び、喜びの日として過ごしましょう。 そして神様の日として、神様の御意志に沿う歩み・・隣人を自分のように愛する・・を歩んでいく者とされたいと願うものです。