「贖い主と弟子」    伝道師 平賀真理子

/n[イザヤ書]53章10-12節 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。 /n[マルコによる福音書]10章32-45節 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 /nはじめに 今日の聖書の前半は、イエス様が「三度ご自分の死と復活を予告する」箇所です。8章では弟子ペトロの「イエス様は救い主(メシア)です」との告白がなされます(29節)。イエス様はペトロの信仰告白を大変喜ばれて、「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上に教会を建てる。」と宣言されました(マタイ16:16)。イエス様が父なる神様から授かった使命は、福音の宣教活動を通じて「イエス様を救い主として信じます」と告白する人々を基盤とする神の国を地上に打ち立て、生まれながらの人間がサタンに与えている支配権を、神様にお返しすることでした。  イエス様は、ご自分を信じて従ってきた弟子達に、人間の救いと御自分の歩みに関する天の秘密を明かされました。「ご受難と復活」です。この予告は三度も繰り返されていることから、このことがいかに重要であったかが想像できます。 /n天の秘密 イエス様の時代から2000年後に生きる私達は、聖書を通してイエス様の「ご受難と復活」の言葉を、次のように理解出来ます。 「イエス様は、父なる神様のご計画を実現する為に、救い主としてこの世に遣わされました。神様の愛の対象として造られた人間は、創造主である神様を信じ続けることが出来ず、神様に逆らうという不従順の繰り返しによって人間の「罪」は大きく膨れ上がり、ついに神様との断絶に至ったのです。自己中心の欲望にまみれた神様から離れた世界で、長い間苦しみ続けていた人間を、神様は憐れみ、人間を罪から救うという「救いのご計画」を立てて下さったのです。  神様は汚れのない聖なるお方で、罪にまみれた人間とつながることは出来ません。神様と人間が再び関係を回復するには、神様から人間を断絶させている“罪”を取り除くことが不可欠でした。 人間社会では、ある人があまりにも大きな負債を抱えて、返済しきれない場合、誰か他の力ある人に、負債を肩代わりしてもらうことが行われます。ところが人間の「罪」の負債を、肩代わり出来る人は一人もいません。すべての人が罪を犯していたからです。それゆえ神様は、人間の思いを超えた、救いの御計画を立てられたのです(イザヤ書52:13~53:12)。 /n十字架の血による贖い(あがない) 人間の中には罪を犯さない正しい人が一人もいない為、神様はご自分の独り子である御子イエス様を、罪多きこの世に遣わされました。イエス様は人間として生れ、その生涯を通して罪を犯されませんでした。そして、人間の「罪」という負債を肩代わりして、神様からの赦しを得る代償として、十字架にかけられ、その血を流されたのです。このことによって初めて人間の罪は赦され、清められ、神様とのつながりを回復する道が出来たのです。 これは、罪のない正しい人の「死をもって、罪を贖う(あがなう)」という方法でした。 /n「わたしは仕えるために来た」(45節) 今日の聖書は、イエス様は罪を犯されなかったにもかかわらず、「罪に定められて」殺されるために、今、弟子達の先頭に立ってエルサレムに向かっているところです。弟子達は驚き、従う者は恐れたと聖書は伝えています。イエス様は12人の弟子達を呼び寄せて、「(私は)、人々の手に引き渡され、侮辱され、殺される。そして三日の後に復活する。」と三度目の受難と復活の予告をされました。 復活は死に対する勝利です。 それに対する弟子達の反応は、ヤコブとヨハネが、将来、イエス様の右と左に座らせてほしいと、自分達を、他の弟子達よりも抜きんでた地位に置くように願い出るという、自己中心的な言葉だったのです。 イエス様は、「それは私の決めることではない」と答えられました。そして、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と教えられました。 イエス様ご自身こそ、私達人間の為にご自分の命を献げられ、私達人間に仕える道を歩み通されて、私達の模範となって下さったお方です。