宗教改革記念礼拝 「世界を変えたもの」 倉松 功先生(元東北学院

/n[詩編] 71編 1-3節 主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によって助け、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。 常に身を避けるための住まい、岩となり/わたしを救おうと定めてください。あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 15-16節 わたしの口は恵みの御業を/御救いを絶えることなく語り/なお、決して語り尽くすことはできません。 しかし主よ、わたしの主よ/わたしは力を奮い起こして進みいで/ひたすら恵みの御業を唱えましょう。 /n[マタイによる福音書] 4章17節 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。 ◆四人の漁師を弟子        *はじめに  私共キリスト者にとって、世界を変えたものは二つあると思います。 一つは、キリストがこの世界に来られたことです。神がこの世界に、私共に、御子キリストを送って下さったことが世界を変えたものです。これは私達だけではなく、世界史においても、世界の精神史においても、世界を変えたということがいえる事柄であったといえるでしょう。 そのキリストは、福音を宣べ伝え始められた時に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ</span>」と告げられました。それによって世界が変わったといえますが、その変化は、政治、経済、武力などの力によって変えたというような、すぐに目に見える変化ではありません。それは一人一人の悔い改め、福音を信じることによる変わり方ですから、世界史や政治史、経済史などの変化と比較出来るものではなく、次元が違うといえます。 もう一つ、私達にとって世界を変えたものがあります。それは、プロテスタント教会の誕生です。ほかならぬ私達が属している教会ですが、このプロテスタント教会が誕生することによって、中世から近世にかけての流れが変わってきたのです。国が、民族によって統一された「国民国家」を造り上げるということが起こり始めますが、特にヨーロッパを中心として、とりわけ先進諸国で「国民国家」の誕生に大きな力をもってきたのがプロテスタント教会です。この場合も一人一人の悔い改め、精神の変化によってもたらされたということが出来るでしょう。 といいますのは、宗教改革は1517年10月31日に宗教改革者マルティン・ルターが、ヴィッテンベルクの城教会の扉に、95カ条の提題を掲示した(紙に書いたものを貼りつけた)ことから始まりました。その95カ条の提題の、第一条が、「私達の主にして、師であるイエス・キリストが『<span class="deco" style="font-weight:bold;">悔い改めよ<span class="deco" style="font-weight:bold;">』(マタイ4:17)と言われた時、キリストはそれによってキリストを信じる者の全生涯が悔い改めであることを求めておられたのである」です。   宗教改革は、「福音に帰る」、「聖書に帰る」、「キリストに帰る」と言われます。その事柄が、この提題の第一条にもあらわれているといえます。 *悔い改め ルターは「悔い改め」をどのように理解していたのでしょうか。  ルターは、「最高の悔い改めというものはない」と言いました。確かに人間は、悔い改めが厳しければ厳しいほど、自分を否定し、沈みます。場合によっては自分の命を絶つこともあります(たとえばユダの場合です)。ルターは、「本当の悔い改めというのは人間が新しくなるということである」と言いました。「新しい人になる悔い改め」とは、神に向かって、キリストに向かって祈る。福音に向かって悔い改めるということです。それは御言葉によって新しくされることを期待しているわけです。 *キリストの言葉を聞く  御言葉に向かって歩む私達にとって最も重要な事柄は、何と言っても御言葉そのものであり、御言葉を聞くということになります。 「礼拝」は、まさにそれであり、御言葉を聞くためには御言葉を語ること、すなわち「説教」が必要です。ルターは、宗教改革による教会を造り上げる時(1522年、それまで保護されていたヴァルトブルグからヴィッテンベルクに帰って来た時)、八つの説教を続けざまにしています。というのは、ヴィッテンベルグは改革の混乱のさ中にあり、宗教改革を力で推進しようとするグループが町を占めていて、教会の聖画像や彫刻を取り壊すということが起こっていたのです。  そこでルターは、その説教の中で、「改革というのは神の言葉を語ることによって起こるのであり、暴力的な力での改革ではない。」と語っています。ではルターの宗教改革の原則、宗教改革の精神、根本的主張は何であったのでしょうか。 *宗教改革  第一は、「聖書のみが信仰のよりどころ、権威の根拠である」。第二は、「キリストを信じる信仰のみによって義とされる(救われる)」です。これは、「キリストのみ」「信仰のみ」に分けることも出来ます。第三は、キリストへの信仰も、義とされて救われるのも、「神の恵みによる」(恩寵のみ)であると言われます。この三つのことを見ていきたいと思います。 *第一:聖書のみが信仰のよりどころである  聖書のみが信仰の拠り所という場合、聖書以外に信仰の根拠、典拠をもっていたローマカトリック教会に対する批判を含めています。  ローマカトリック教会においては、「カテキズム」(キリスト教信仰を教える書物、教理問答(信仰問答)のこと)があり、教皇がキリストに代わる代理者として教会の上に、完全で最高の権能(権力)を持っており、聖書解釈や教理についての決定権を持っている、としています(カトリック教会カテキズム参照)。こういう考え方・制度は、「聖書のみ」を掲げる者には受け容れることが出来ません。  又、カトリック教会では、七つのサクラメント(聖礼典)が制定されています。<七つとは、洗礼、聖晩餐(聖体拝領)、堅信礼、(信仰告白)、叙任(司教・司祭・助祭の任職)、病者への塗油、結婚、告解(罪の赦し)をいう>。  これに対して、「聖書のみ」を主張するプロテスタントは、二つだけをサクラメント(聖礼典)として執行します。それは「洗礼」と「聖餐」です。なぜならこの二つはキリストが定めたものであり、これを受けることによって直接神の恵みが与えられ、又、神の恵みの約束の言葉をもっていることから、サクラメントとして条件を満たしていると考えるからです。 *第二:キリストを信じる信仰のみ  ロマ書3:28に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです</span>。」とあります。 又、ガラテヤ書2:16に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました</span>」とあります。これは、ルターが宗教改革を推進していくにあたって、一番重要な事として主張したことです。それは当時、「信仰のみ」ではなくて、「信仰」プラスアルファとしての免罪符がありました。免罪符は、おふだを買い取ることによって「罪がつぐなわれる」、更に「赦される」というものでした。それに対するものとして、「信仰のみによって義とされる」が、ルターの宗教改革の、最初の具体的な行動であり、最後まで、ルターの宗教改革の根底にありました。 *信仰 その「信仰」は、いかにして与えられるかについて、パウロは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。</span>」(ロマ10:17)と言いました。聞かなければ信仰は与えられないのです。何を聞くのか。それは「神の言葉を聞く」のです。それゆえルターは、神の言葉(聖書)をドイツ語に翻訳し、それによって、すべての人が神の言葉を直接読むことが出来るようにしました。  私達にとっても、聖書の言葉を自分で読むということは欠かすことが出来ませんが、説教者を通して「聖書に基づく説教を聞く」ことは、ロマ書での「信仰は聞くことによる」ということです。ですからパウロは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか</span>。」(ロマ10:15、イザヤ52:7)と説教者を称えているのです。 *信じることによって義とされる  「義とされる」は、「義と認められる」と聖書にあり、「義と宣告される」との理解もあります。この「義」は私共が持っている義ではありません。私共は、神の前で義と認められるような完全な義をもっていません。 パウロは、「キリストが義と聖と贖いになられた」と言っていますが、キリストの義は私共の外にある。しかし神は、キリストのゆえに私共を義と認められる。キリストの義が私共の中に移されるということです。この点についてルターとカルヴァンも強調しており、カルヴァンは、「転嫁される」と言っています。それだけに、私共がキリストの義を受け入れる信仰が大切です。キリストの義を受け入れることによって、私共は新しい人になっていく。それが保証される。それが事実となっていく。それを聖霊の果実、聖霊の実ということが出来るでしょう。 *第三:恵みのみ  この「恵みのみ」は、「信仰のみ」にまさって重要なものではないかと思います。なぜならば、信じたいから信じるということは、私共には出来ないからです。どんなに聖書を読んでも、説教を聞いて信じたいという気持が起こってきても、「信じたいから信じる」というわけにはいきません。私共は「神の恵みの働き」(恵みとは、御言葉と共に働く力・聖霊の力)によって信仰が与えられる、ということが言えるでしょう。宗教改革の時代、重要な討論会が行われましたが、そこでも「信仰は聖霊によって与えられる」と言っています。それを恵みと表現し直しています。 「恵みのみ」ということは、私達の信仰の生活の発端から生涯にかけて重要です。 *おわりに 宗教改革の三つの原則(聖書のみ・キリストを信じる信仰のみ・恵みのみ)についてお話しましたが、私共はこのことを聞くにつけ、ルターが最初に語った「悔い改める」ということの重要性を思います。つまり、福音に向かって、キリストに向かって悔い改めるということは、具体的には「キリストの義を受け入れる」ということでしょう。受け入れることによって、私共に心の変化が与えられる。そしてキリストの義が私共に移されるのです。 「世界が変わる」ということがらは、教会と私達一人一人の悔い改めから始まっていきます。これは、精神の改革ですので、一人一人の悔い改めによって、悔い改めた一人一人が集まっている教会という集団を通して、世界が変わっていくのです。それは、神が、御子キリストを私共に送って下さったことにより、御子を中心として集まっている教会によって変わっていくということに連なっていくと思うわけです。 宗教改革を覚えて、神に感謝し、神に対して賛美をしたいと思います。