「ぶどう園と農夫のたとえ」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書5:1-7 /nマルコ福音書12:1-12 /nはじめに   ユダヤ教指導者達は、イエス様のなさった「宮清め」だけでなく、神の御子にしかできないイエス様の力ある業や説教や癒しによって、群衆の尊敬が、自分達からイエス様へと移っていくことへの嫉妬や敵意がうずまいていました。しかも群衆は、イエス様を通して神様の力の偉大さを知り、神様を心から讃美していたのです。 神様がイスラエルの民を御自分の民として選んだのは、彼らが他のどの民よりも貧弱であったからだと聖書に記されています(申命記7:7)。神様は弱い者を憐れまずにはおれない御方です。その御心こそ第一に尊重されるべきでした。その神様の愛を分かりやすく人々に示したのがイエス様です。しかしユダヤ教指導者達は、律法の細々した規定や解釈に気を取られ、それが分からず、イエス様をどうにか追い払おうとしています。又、自分達から離れていった民衆の心を再び取り戻そうとしています。 イエス様は、真実に対してはっきり従う決断をしない彼らに対して、きっぱりと線を引きました。しかし憐れみの心を持って真実を理解させ、救いに入ってほしいと思われて、彼らの姿を知らせるために、本日の「ぶどう園と農夫」の話をされたのではないかと思います。 /nぶどう園 「ぶどう園」と言えば、イスラエルの人々はイザヤ書5:1~7を思い出したことでしょう。「ぶどう園を心をこめて造った人」とは「神様」です。「ぶどう」は、「イスラエルの民」です。「ぶどうの良い実」とは「イスラエル民族の神様(ヤハウェ)への信仰」であり、「実が酸っぱい(ぶどう)」は、「神様への不信仰」のことです。具体的には「偶像礼拝」です。 主人が「ぶどう園を見捨てる」とは、不信仰の民全体を裁かれることで、悲しみや苦しみに民全体を引き渡すというたとえです。   /n農夫  イエス様は、旧約聖書と同じ背景を使いながらユダヤ教指導者達を、「ぶどう園の農夫」にたとえました。最初にぶどう園の主人が、いかに智恵を使い愛情をかけてぶどう園を造ったのか、手順を挙げて表現しています。「主人」はこの世を造られた神様と考えて良いでしょう。「ぶどう」はイスラエルの民と考えて良いでしょう。「農夫」はそれを管理し育てる役割を託されています。そして良い実りをもたらし、その収穫を渡すように主人から期待されています。この農夫の役割こそ本来、民の信仰を育て上げ、それを神様に捧げるはずのユダヤ教指導者=大祭司・律法学者・長老達が担うはずでした。しかし彼らは、その役割を担うことなく、自分達の権威を保持する為に預言者達にひどい仕打ちをします。 /n「捨てた石が隅の親石となる」 たとえでは、農夫達は送られてくる主人のしもべを殺してしまいます。主人は自分の息子なら敬ってくれるだろうと思い、最後に息子を送ります。これこそ父なる神様が人間を救いたいという愛ゆえに、この世に送った御子イエス様のことです。ところが自分達の利益に目が眩んだ農夫達によって息子も殺されるという描写は、イエス様がユダヤ教指導者達の働きかけによって十字架にかけられる受難の道のりを示しています。主人の忍耐も息子の死迄で、そこから徹底した裁きが始まります(9節)。   イエス様は詩編118編を引用し、「捨てられた石が隅の親石となる」という神様の業を語られます。それは、ユダヤ教指導者達がイエス様を排除しても、神様は排除されたイエス様をメシアとして用いられるということです。神様の業は人間には理解しがたく、不思議としか言いようがないと詩編は告白します。私達が信じるイエス様は、人によって捨てられ、神様によってメシアとされた「神の御子・イエス様」です。