「パンと神の言葉」   牧師 佐藤 義子

/n詩編 91:1-13  /nマタイ福音書4:1-11 /nはじめに  今日の聖書は、イエス様が荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた時の出来事です。私達が信じるイエス様は神の御子であり、私達人間を救う為に、この地上に人間として生れて来られました。人間として生れてくださったということは、肉体を持つゆえの苦しみや戦いが私達と同じようにあり、その御生涯は、私達と比べることの出来ない、はるかに厳しいものでした。 イエス様が、おおやけの生涯に入られたのは30歳の頃と言われますが、最初にされたことは、ヨルダン川に行き、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることでした。ヨハネは、罪を犯されなかったイエス様に洗礼を授けることを拒みますが、「正しいことを行うのは我々にふさわしいこと」と言われて授洗します。すると天が開いて神の霊がイエス様の上に降り、「これは私の愛する子、私の心に適う者」という神様の御声がありました。 その後、イエス様に降った霊が、イエス様を荒れ野に導いていきました。 霊に導かれて荒れ野に行かれたということは、このことが神様から出た、神様のご計画であったと受けとめることが出来ます。 なぜ、神の御子が誘惑を受けなければならなかったのでしょうか。 /n誘惑 誘惑は、人が人として正しく生きていくことを邪魔し、人を堕落させ、神様から離反させることを目的とします。外から来る誘惑もあれば、内側から起こる誘惑もあります。洗礼を受けられたイエス様は、40日間、断食され、そのような状況のもとで悪魔の前に立たれました。空腹を覚えられたイエス様への最初の誘惑は、「あなたが神の子ならば、石をパンに変えてみよ」でした。第二は、「あなたが神の子ならば、神殿の屋根から飛び降りてみよ。聖書に、『天使が支えてくれる』と書かれている。」という聖書を引用しての誘惑でした。第三は、「もし、悪魔にひれ伏して拝むなら、この世のすべての権威・権力を与える」という誘惑です。 最初の二つは「あなたが神の子なら、私の言う通りやってみよ」との誘いです。 /nイエス様の応答   イエス様は神の御子として、石をパンに変えることも、高い所から飛び降りることも出来ました。しかし神様が「生きよ」と命じられる時、パンがなくても命を保ち続けることが出来ます。イエス様が神様の力の中で命を支えられる限り、どのような者もイエス様の命を損なうことは出来ません。悪魔は、神の力を使うように誘導しましたが、イエス様は申命記の言葉で、この誘惑を退けられました「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」(8:3)。   第二の誘惑も申命記で退けられました。「あなたたちの神、主を試してはならない。」(6:16)。イエス様が悪魔の誘いにのり、神殿の屋根から飛び降りるならば、神様がイエス様を守って下さるかどうかを試すことになります。神様が支配者であり、神様の主権を認めるなら、神様の意志が先行しなければなりません。イエス様は、神様がなすように命じられたこと以外は何もなさらないことを伝えました。 /n「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕えよ。」(申命記6:13) 最後の誘惑は、悪魔にひれ伏すことによって、この世の支配権をすべて与えるというものでした。お金や地位や権力など生きる為には大きな武器となり得ます。しかしイエス様は、申命記の言葉をもってサタンを退けました。イエス様はご自分の上に、神様以外のどのような支配をも許されませんでした。イエス様は私達に、神様に従って生きる生き方をはっきりと示し、誘惑や試練の中での、悪魔に勝利する道を教えられ、以後の公生涯においてもサタンとの戦いの中で神様への従順を貫かれ(フィリピ2:8)、この世の勝利者となられました。(ヨハネ16:33)。 私達も又、御言葉をたくわえて、み言葉に従順に従う信仰をもって、この世の戦いに勝利されたイエス様の御跡に従っていきたいと願うものです。