「光の子として歩む」   牧師 佐藤 義子

/n詩編 18:26-35  /nエフェソ書5:6-14 /n はじめに  キリスト者とは、「イエス様を、神の子・救い主と信じる者」です。 以前は、そのような信仰を与えられていなかった者が、神様に出会い神様から信仰が与えられ、神様を信じて従って行く決断をして、バプテスマを受けてクリスチャンになった者です。今日の新約聖書のエフェソ書5章を開くと、右頁下段に、「古い生き方を捨てる」との小見出しがあり、左頁上段には「新しい生き方」とあります。ここから、クリスチャンとは「古い生き方を捨てて、新しい生き方へと変えられた者」だとわかります。 /n 私達は神に愛されている子供 5章1節で、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と呼びかけています。私達は神様から愛されている子供です。なぜなら神様は、私達に愛する独り子イエス様を下さったからです。 もしもイエス様がおられなかったら、私達は神様から罪を赦されないまま、祈ることも出来ない関係が続いていたでしょう。しかし神様は私達を愛して下さっていた。だからイエス様を下さったのです。そしてイエス様は、私達の罪が赦される為に十字架で血を流されました。私達の罪はあがなわれ、信じる者は神の子とされ、「天のお父様」と祈る道が開かれたのです。 /n 神に倣う者となりなさい 神様は、たとえ私達がどのような者であっても、全くの無条件で、信じる者を神の子とされました。「神に倣う者」とは、神の子としてふさわしくありたいと願うことであり、イエス様に倣うということでもあります。イエス様は私達の為に、ご自身を捧げて下さったから、私達もそれに倣い、愛によって歩むようにと聖書は勧めています。 /n 今は光となっている 8節に、「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とあります。クリスチャンは「光」とされました。神様が光であるから、御子イエス様は、光としてこの地上に来られ、そして、信じる者は「光の子」とされ、神様に愛されている子供です。   光でない者は闇です。人は、光か、闇か、どちらかであり、中間はありません。そして、光は実を結び、暗闇は永久に不毛です。 /n 光から生じるもの   9節に、「光から、あらゆる善意と正義と真実が生じるのです」と記されています。あらゆる奉仕に働く善き意志、悪から遠ざかる正義、偽善を拒む真実が、光から生れます。光は、多くの実を育てて成熟させます。ガラテヤ書では、光から生れるものを「霊の実」と表現して、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」を挙げています。 キリスト・イエスのものとなった人達は、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったと説明します。十字架につけたということは死んだということです。死んだ肉欲の働きとして、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、このたぐい」を挙げています。これらは暗闇であり、何も生み出さない「不毛」だということが良くわかります。   /n 光の子として歩む 真っ暗な部屋に一筋の光が入った途端、暗闇は逃げて行きます。私達クリスチャンは光ですから、闇とは共存できません。 14節には「眠りについている者、起きよ」と呼びかけています。眠っている人は、眠っていることを自覚できません。自分が眠っていることを知るのは目覚めた瞬間です。 目覚めて闇から救われたキリスト者は、聖霊の導きをいただいて、光の子として歩んでいきましょう!