「生きている者の神」    伝道師 平賀真理子

/n出エジプト記3:15-20 /nマルコ福音書12:18-27 /nはじめに   イエス様が十字架につけられたのは金曜日ですが、三日前の火曜日は、イエス様を敵視する有力者達との論争が多くなされました。その中で前回は、ファリサイ派とヘロデ派と言われる人々がイエス様に論争を仕掛けた時のことを学びました。彼らは、イエス様の真理に基づいた的確な答えを通して、逆に、自分達の仕掛けた罠にかかった形で敗れ去ります。そして今日の箇所では、イエス様は、サドカイ派と呼ばれる論敵に向き合います。 /nサドカイ派 サドカイ派は、ファリサイ派と共に、当時のユダヤ教の指導者グループを二分する勢力でした。 彼らは、エルサレム神殿で礼拝をささげることが神様に対する最大の信仰と考えていました。 当時首都エルサレムには「最高法院」があり、宗教と政治の権力が集中していました。サドカイ派の人々は、世襲で最高法院の議員になれる階層の人々で、イスラエル民族の中ではエリート中のエリート、いわば貴族のような人達と考えていいでしょう。 それでも彼らは宗教的価値を一番と考え、民族としての政治的独立は二の次に考えていました。そのため、ローマという異邦人の支配にも反抗せず、神殿礼拝が守れるならばローマに協力するという姿勢を持っていました。 サドカイ派はファイリサイ派と違い、見えない「霊」や「天使」の存在を信ぜず、又、「復活」もないと主張しました。現実主義に立ち、現実を軽視して未来に希望を抱かせるような復活を否定していたのです。彼らはイエス様に、律法(申命記25:5-10)を引き合いに出し、「もし復活があるなら、律法に従って「義兄弟婚」(子供がいないまま夫が死んだ妻は、夫の兄弟の妻になり、子孫を得る)をした女性は、復活時は誰の妻になるのか」と質問したのです。 /nイエス様の答え イエス様は、復活は勿論ある。けれども復活後は、人は、この世の婚姻関係に縛られることなく「<span class="deco" style="font-weight:bold;">天使のようになる</span>」と答えられました。 そして彼らの、「復活も天使もない」という間違った主張と、「復活」を誤解しての質問に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた達は聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」</span>と厳しく指摘されました。 /n復活  イエス様に論争を挑んだサドカイ派の人々は、「生きる」「死ぬ」という言葉を、この世の肉体上の命に結びつけて、「復活」を考えました。彼らはこの世に足の主軸を置いて、聖書や神様のことを論じようとしています。しかしイエス様の言われる「死んでいる」「生きている」は、「神様の前に」生きる・死ぬと言うことです。神様を信じ、御心を行おうとする者は、肉体上の生死にかかわらず永遠に生きているのであり、逆に神様の存在を知ろうともしない者、御心に従おうとしない者は、肉体的には生きていても神様の前に死んでいる状態にあるということです。 /n「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」  イエス様は、神様が御自分のことを、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」</span>と言われたことを引用され、アブラハム・イサク・ヤコブ(イスラエル人の祖先)は、神様を信じて生きたことで、神様の前に生きている状態であると言われました。(「永遠の命を得る」とも言い換えられるでしょう)。 アブラハムは神様の御言葉に従って、行き先も知らずに出発しました。 イサク・ヤコブもその信仰を受け継ぎました。彼らは、「死んでいた」状態から、神様のご計画に従って信仰の証しを立てて、神様の前に「生きている者」とされ、復活の恵みを与えられた人達です。 神様の前に生きるとは、「神様を信じて、御心に従って生きる」ことです。 御心とは「罪ある人間が救われること」です。 「イエス様の十字架の死」という大きな犠牲は「私達を救う神様の御心」であったことを知り、神様に感謝し、信仰を成長させていけるように祈り続けたいと願います。