「復活の主と弟子達(1)」  伝道師 平賀真理子

/n詩編23:1-6 /nヨハネ福音書21:15-19 /nはじめに   今日の新約聖書は、復活の主・イエス様が姿を現わされ、失望していた弟子達を、食事によって力づけた後の出来事として記されています。   イエス様がなさったことは、御自分の宣教活動で広まった「この世における神の国の民」を率いる牧者の役割を弟子に譲ることを宣言されることでした。選ばれた弟子はシモン・ペトロです。彼はイエス様のことを「メシア」(救い主)と告白した弟子で、この告白により、イエス様は天の国の御自分の権威を、ペトロに授けることを宣言されています。(マタイ16章)。 /n繰り返された問いと応答 今日の箇所で、イエス様はペトロに、他の弟子より御自分を「愛しているか」を聞かれています。そして、「私の羊を飼いなさい。」とは、イエス様を信じて従う者達を教え導き守る役目を「ぺトロ、お前に渡すのだよ」という意味です。ここで印象的なのは、イエス様がペトロに三回も「わたしを愛しているか」と問い、「愛している」と三回も答えさせていることです。ペトロはイエス様をメシアとして告白した弟子ですが、大きな失敗もしました。イエス様の十字架という苦難の前に、イエス様と共に死ぬことを誓ったにもかかわらず、その死が間近になると、三回もイエス様を知らないと言ってしまったのです。嫉妬深い敵対者であるサタンから見れば、「ペトロは自分の性質を受け継いでおり、神の国の民ではない」と主張するでしょう。イエス様は、「知らない」との裏切りの発言を越える、価値ある発言を導くことで、ペトロをサタンの追求から守り、罪の世界へ再び沈みかけたペトロを、御自分の方へ導かれたのです。 /n「わたしを愛しているか」 イエス様の「わたしを愛しているか」の、最初と二回目の「愛」の語は、「神様の人間に対する愛」と同じ性質で愛するかという意味ですが、ペトロが答えた「愛する」は、二度とも人間同士の「愛」でした。そこで三回目のイエス様の「愛するか」は、ペトロが用いた「愛」に変えられました。ご自分の言葉の深い意味が分からないペトロを憐れみ、へりくだられたのでしょう。 /n「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」  イエス様の、「わたしを愛しているか」の質問に、ペトロは「はい、愛しています」と言わずに、「愛していることは、あなたがご存知です」と答えました。自分を厳しく見つめるならば、「責任を持って強い意志で主を愛しぬいてはいない」という不信仰に気付くはずです。しかし、ペトロは自分の大きな罪は脇に置き、厚かましく主に甘えているのではないでしょうか。主の御言葉の重みを理解できない愚かさと、罪に対する悔い改めの不徹底さと自己中心性・・。ペトロを指さして、自分には関係のないことだと笑っていられない、と自分の心が訴えかけてきます。 /n罪の心 限られた能力しか持たない私達が、全知全能の神様のご計画の全てを理解することなど出来ません。それなのに私達は、自分の知識や感覚を越えたものを、「信じられない」と排除しようとする罪の心が働きます。罪の世界の習性に引きずられて罪に陥った時にも、悔い改めることから目をそらそうとします。又、他人の罪を見て自分の罪はまだ軽いと考えるなど、懺悔しなくてはならないことが多くあることに気付きます。 /n「わたしに従いなさい」 このあとイエス様はペトロに「わたしに従いなさい」と言われました。「従う」は、生死を共にするという意味を含むこともあります。運命を共にすることほど人を結びつけるものはないでしょう。 復活の主・イエス様は、罪を重ねてしまう愚かな弱い私達にも「わたしを愛しているか」「わたしに従いなさい」と、今も招いておられます。この招きに信仰をもって従うことは、神様の愛のように、へりくだる性質を持って愛していくことであり、時には大きな自己犠牲を強いられるかもしれません。しかしそれは、神様から創られた私達人間の魂が本当に満たされる生き方でもあります。主の御前にふさわしい歩みができるよう祈りましょう。

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