「いかに幸いなことか」  佐々木哲夫先生(東北学院大学)

  (伝道所開設8周年記念感謝礼拝) /n詩編1:1-6   /nマタイ福音書 5:1-12   /nはじめに  詩編は150の詩から成り立っています。150もありますから、内容も様々です。たとえば困難な状況に置かれた詩人が、その状況を神に嘆き訴える詩、信仰の確信を表明したり、神を賛美したりする詩、又心の底から絞り出す願いを神に叫び求める詩など幅広い内容となっています。そのような150の詩編の冒頭に置かれたのが今日の詩編、第一篇です。いうなれば、詩編全体の序文と評されているものです。たとえば宗教改革者のジャン・カルヴァンは、詩編注解の中で次のように記しています。「この詩編を、全巻の冒頭に序詞として置いたのは、すべての信仰者に、神の律法を瞑想する義務を思い起こす為であった。」さらに続けて、「天来の知恵に心を傾ける者は幸福となり、反対に神をあなどる者は、たとえ暫くの間、自らを幸福な者と考えるとしても、ついには、はなはだしい不幸に陥るだろう。」  私達も今朝、この詩編第一編に心を傾けたいと思います。 /n二種類の人間 詩編一篇を概観してみますと二種類の人間・・神に従う者と神に逆らう者、その両極端の人間が対照的に描かれていることに気が付きます。 最初に、神に従う者が描かれています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人</span>。」(1節-2節)と記されていますが、逆説的にこの表現は、神に逆らう者の姿をも表わしています。すなわち、神に逆らう者とは、「計る者」「罪ある者」「傲慢な者」のことです。最初の「計らう者」とは、神に対して悪意、又は邪悪さをもってことを企てる者のことです。「罪ある者」とは、的(まと)から外れて生きている者、「神」という目標から外れて生きている者のことです。「傲慢な者」とは、「あざける者」のことです(詩編119編参照「傲慢な者は、私を、はなはだしく見下しますが・・」)。「傲慢な者」は、神の教えを放棄して、裁きなど恐れず、あざける者の姿を表現しています。悪意ある計画を計り、神から外れて歩んで、神をあざける。そういう混然一体となって「神に逆らう者」の姿を浮き彫りにしています。 他方、神に従う者はそうではない。そういう生き方とは一線を画します。一線を画すだけでは無くて、むしろ主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむというのです。この第一篇はそのような、神に従う者と神に逆らう者の生き方の違いだけではなくて、その生き方が招く「結果」にも言及しています。 /n生き方が招く結果 神に従う者の結果は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす</span>。」(3節)というのです。対照的に、神に逆らう者の生き方の結果は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに耐えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない</span>。」(4節-5節)と記されています。カルヴァンの表現を借りるなら、「悪しき者が眠りから覚める時、正しい者の集いに加えられていないことに気付かざるをえないだろう。困難な時代にあっても常に神がこの世のことがらを統べ治め、混乱から秩序を造りだされるということを考えようではないか。」と説明されます。ここで印象深い表現は、「表面は立派なものだが風が吹けば飛ばされてしまうもみ殻のようだ」と、「もみ殻」という言葉を使っています。 /nマタイ福音書では 新約聖書では、マタイ福音書5章で、神に従う者の姿がくわしく描写されています。神に従う人は、「心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心の清い者、平和を実現する者」、そういう者達であり、そういう者達が受ける結果は「天の国、慰め、地を受け継ぐ、満たされる、憐れみを受ける、神を見る」です。特に最後の「神を見る」という描写は、かなり衝撃的です。といいますのは、旧約聖書で、神は燃え尽きない柴の中から「モーセよ、モーセよ」と呼んだ場面が描かれていますが、呼ばれた時にモーセは、神を見ることを恐れて顔を覆ったと伝えられているからです。モーセは、神から呼ばれているにもかかわらず、なぜ神の顔を見ることを恐れたのか。それは、あまりにも神は清い存在であるので、その清い存在である神を見るならば、汚れている人間はその汚れのゆえに、あまりにも自らの汚れがはっきりと示されるがゆえに滅びてしまうと恐れたからであります。旧約聖書では、神を見るというのは特別なことでありました。 まさに「神を見る」そのことは、心の清い者だけに許されていることです。マタイ福音書において、「神に逆らう者」とは迫害する者のことです。そして、11節-12節には次のようにまとめられています。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 /n私達は今日の聖書から何を聞くか このように旧約聖書においても、新約聖書においても、神に従う者と、神に逆らう者の姿は対照的な姿として描かれており、そしてその生き方の招く結果が描かれています。そのような聖書の箇所を、今日の私達はどのように読むか、どのような意味を聖書は今日の私達に与えてくれるのか、ということです。私達はこのような聖書の箇所を読んで、何を教えてくれるのか、ということです。 さまざまなことが教えられることですが、その内の一つを私達は教えられたいと思うのです。それは、私達は「日常をどう生きるか」ということです。さきほど旧約聖書と新約聖書を見ました。特に旧約聖書の、詩編の第一篇の詩人の課題は、「悪意ある計画を計る者、神から外れて歩む者、神をあざ笑う者達と共なる生き方、そういう日常をどう生きるか、ということが問題であったと思われます。マタイ福音書の課題は、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられることが少なからず起きた日常において、自分達はどう生きるかとういうことが問題であったのでありましょう。詩編の注解を記したカルヴァンの課題は、宗教改革に反対する者達の意見や迫害にさらされるそんな日常に、教会の徳を高めるために、どう生きたら良いかということでありました。 いずれの時代においても、日常における信仰者の葛藤が描かれているのです。 /n私達の日常 では、私達にとっては日常とはどのようなものでしょうか。私達の日常とは、灰色の、平凡でつまらなくて、そういうことの繰り返しである・・そんなことなのでしょうか。そうではないと考えます。 信仰者の日常は、そうではなく、「主の教えを愛し、その教えを夜も昼も口ずさむ。そして流れのほとりに植えられた木のように実を結ぶ。モーセにも増して神を見る」、そのような豊かな日常に生かされているということではないでしょうか。特に、先の東日本大震災で亡くなった多くの犠牲者達のことを思う時に、彼らが望んでも生きることの出来ない日常に私達は「今」、生かされているということに特別に留意したいと思うのです。すなわち私達にとっての課題は、「今」という、この生かされている日に、いかに生きるべきか、ということです。私達は、ある意味では神に逆らう者と共に生きている。それが日常です。 /n「永遠」と出会っている世界の日常を生きる しかしこの日常の中で、かろうじて永遠をみつめながら生きているというものではありません。そうではなくて、「永遠」とすでに出会っている世界、そして日常を生きているということです。そのことを自覚したいと思うのです。私達がこの世界で造り出すこと、体験すること、苦悩すること、そういう様々なことは、日常に埋没して消え去ってしまうというのものではなく、むしろ永遠に向かって造り出し、体験し、苦悩しているということです。 永遠に連なっている今を生きている、ということです。それが、今、この時代に生きるキリスト者の責任です。すなわち詩編やマタイ福音書の言葉は、今日の私達の信仰者に語りかけられている神の言葉なのです。 ところで、永遠がすでにこの私達の日常と出会っている、この日常に私達は生きていると申しましたが、それは抽象的な概念ではないのです。 歴史の中の具体的な出来事、すなわち、主イエス・キリストがこの世界に到来したという出来事に裏打ちされている表現です。主イエス・キリストを見る時、私達はまさに「神を見る者」とされるのです。 特に本日、この礼拝は、仙台南伝道所の開設の記念の礼拝です。 まことの創立者であるイエス・キリストを見つめる。特に、イエス・キリストの十字架の出来事を想起する。そういうことによって私達の日常は「いかに幸いなことか」と、呼び得るほどに確かなものとされるということを覚えたいと思います。 「いかに幸いなことか」と、旧約聖書の詩人や新約聖書の記者達は記した、その「いかに幸いなことか」と呼び得る「幸いな日常」をしっかりと歩む者とされたい。それが今日の聖書の箇所から私達に語りかけている言葉であるということを覚えたいと思います。