「メシアについての問答」   伝道師 平賀真理子

/n詩編110:1-7 /nマルコ福音書12:35-37 /nはじめに  今日の聖書箇所直前で、イエス様は、律法学者から質問を受けて、最も重要な掟「主なる神様を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること」について教えられています。「神様の愛」は、愚かで弱い私達人間が神様からの愛に答えられなくても、それにもかかわらず愛して下さるというものでした。 相手の反応に左右されるのではなく、本気で「愛したい」という意志に貫かれた、主体的で永続的であると言うこともできます。 又、神様の愛は、相手にも主体性を与えようとされます。親が子供に良い教育を受けさせようとしても、子供は親の愛の意味がわからず、勉強させられるとの重荷ばかり感じて逃れようとしますが、自分でそれをしなければならなくなった時、初めて人生や学びに対して主体的になるように、神様は私達が主体的に行動することを求めておられます。 /nイエス様への誤解 イエス様に質問した律法学者は、イエス様の言われることを良く理解したので、その知識においてイエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたは神の国から遠くない</span>」(34節)と言われました。が、彼は、「あなたは神の国に入る」とは言われていません。おそらく彼は、イエス様を信じて従う道を選ばなかったと思われます。この世の権威と結びつきやすい学問の世界では、「救い主はダビデ王の子孫から・・」と信じられており(サムエル記下7:12-参照)、職人階級出身(大工の息子)のイエス様とメシアは結び付かなかったのでしょう。 /nメシアの預言  イエス様は、学者達が重要視しているダビデを引き合いに出しながら、「詩編110編」を引用されました。神の霊を受けて書かれたこのダビデの賛歌は、「三位(父・子・聖霊)一体の神」を証ししています。36節の最初の「主」は「父なる神」を指し、「わたしの主」と言い表されている方は、(ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」)「救い主・神の御子イエス様」のことを指しています。 110編は、イエス様が十字架の受難に従順に従われたので、悪に打ち勝ったことによる栄光として、復活後、父なる神のおられる天に戻られたことの預言です。父なる神様は、御子イエス様を愛し、来るべき日に、サタンを完全に屈服させ、この世界を、御自分の支配下に置かれます。 /nメシアの働き   ユダヤ教の有力者達は「メシアは、ローマの支配下で虐げられている自分達を解放し、ユダヤ人国家を作る政治的な王」と考えていました。しかしイエス様が説く「メシア」は、先ず「霊的な救い」を成し遂げる役割でした。サタンの支配下に陥っている人間の苦しみや悲惨さから人間を霊的に救うことが第一の任務でした。  イエス様は、ダビデがメシアに、霊的な面で「わが主」と呼んで敬意を払っていることを指摘されます。律法学者達の「メシアはダビデの子孫であるべき」ことは二の次です。イエス様が詩編を引用されたのは、聖霊によって、霊である神様の本質やその御心を知り、従う者こそが「メシア」であり、それが「御自分である」ことを示すためでした。   イエス様をメシアとして受け入れない学者達と違い、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾け」(37節)ました。群衆は、イエス様の御言葉を、サタンに邪魔されずに受け入れることができたのでしょう。 /n私達の生きる道  私達は今日の聖書を他人事として聞くならば、それこそサタンの思う壷です。 サタンは、人間を、この世の出来事や自分の利益のことで頭を一杯にさせて神様を忘れるように仕向け、自分の罪を認めることから遠ざけ、又、自分と同じ罪に他人を引きずりこむような罪へと誘導します。   私達は、イエス様の招きに応える者として導かれています。それによって父なる神様につながることを赦されています。そのことは 私達に大いなる平安をもたらしてくれます。又、イエス様に願えば、助け主としての聖霊が私達を助けてくれます。私達は、神様の下での永遠の救いに与っています。その救いを、御自分の犠牲によって勝ち取ってくださったイエス様に感謝しつつ、歩んでいきましょう。 先週(6月17日)の礼拝説教要旨 詩編110:1-7・マルコ福音書12:35-37 「メシアについての問答」伝道師 平賀真理子 *はじめに  今日の聖書箇所直前で、イエス様は、律法学者から質問を受けて、最も重要な掟「主なる神様を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること」について教えられています。「神様の愛」は、愚かで弱い私達人間が神様からの愛に答えられなくても、それにもかかわらず愛して下さるというものでした。相手の反応に左右されるのではなく、本気で「愛したい」という意志に貫かれた、主体的で永続的であると言うこともできます。又、神様の愛は、相手にも主体性を与えようとされます。親が子供に良い教育を受けさせようとしても、子供は親の愛の意味がわからず、勉強させられるとの重荷ばかり感じて逃れようとしますが、自分でそれを しなければならなくなった時、初めて人生や学びに対して主体的になるように、神様は私達が主体的に行動することを求めておられます。 *イエス様への誤解 イエス様に質問した律法学者は、イエス様の言われることを良く理解したので、その知識においてイエス様は「あなたは神の国から遠くない」(34節)と言われました。が、彼は、「あなたは神の国に入る」とは言われていません。おそらく彼は、イエス様を信じて従う道を選ばなかったと思われます。この世の権威と結びつきやすい学問の世界では、「救い主はダビデ王の子孫から・・」と信じられており(サムエル記下7:12-参照)、職人階級出身(大工の息子)のイエス様とメシアは結び付かなかったのでしょう。 *メシアの預言  イエス様は、学者達が重要視しているダビデを引き合いに出しながら、 「詩編110編」を引用されました。神の霊を受けて書かれたこのダビデの賛歌は、「三位(父・子・聖霊)一体の神」を証ししています。36節の最初の「主」は「父なる神」を指し、「わたしの主」と言い表されている方は、(ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」)「救い主・神の御子イエス様」のことを指しています。 110編は、イエス様が十字架の受難に従順に従われたので、悪に打ち  勝ったことによる栄光として、復活後、父なる神のおられる天に戻られ   たことの預言です。父なる神様は、御子イエス様を愛し、来るべき日に、 サタンを完全に屈服させ、この世界を、御自分の支配下に置かれます。  *メシアの働き   ユダヤ教の有力者達は「メシアは、ローマの支配下で虐げられている自分達を解放し、ユダヤ人国家を作る政治的な王」と考えていました。しかしイエス様が説く「メシア」は、先ず「霊的な救い」を成し遂げる役割でした。サタンの支配下に陥っている人間の苦しみや悲惨さから 人間を霊的に救うことが第一の任務でした。  イエス様は、ダビデがメシアに、霊的な面で「わが主」と呼んで敬意を払っていることを指摘されます。律法学者達の「メシアはダビデの子孫であるべき」ことは二の次です。イエス様が詩編を引用されたのは、聖霊によって、霊である神様の本質やその御心を知り、従う者こそが「メシア」であり、それが「御自分である」ことを示すためでした。   イエス様をメシアとして受け入れない学者達と違い、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾け」(37節)ました。群衆は、イエス様の御言葉を、サタンに邪魔されずに受け入れることができたのでしょう。  *私達の生きる道 私達は今日の聖書を他人事として聞くならば、それこそサタンの思う壷です。人間を、この世の出来事や自分の利益のことで頭を一杯にさせて、神様を忘れるように仕向け、自分の罪を認めることから遠ざけ、又、自分と同じ罪に他人を引きずりこむような罪が、私達の日常生活に潜んでいないでしょうか? 私達は、イエス様の招きに応える者として導かれています。それによって父なる神様につながることを赦されています。そのことは私達に大いなる平安をもたらしてくれます。又、イエス様に願えば、助け主としての聖霊が私達を助けてくれます。私達は、神様の下での永遠の救いに与っています。その救いを、御自分の犠牲によって勝ち取ってくださったイエス様に感謝しつつ、歩んでいきましょう。 /n詩編110:1-7 /nマルコ福音書12:35-37 *はじめに  今日の聖書箇所直前で、イエス様は、律法学者から質問を受けて、最も重要な掟「主なる神様を全身全霊で愛すること、そして、隣人を自分のように愛すること」について教えられています。「神様の愛」は、愚かで弱い私達人間が神様からの愛に答えられなくても、それにもかかわらず愛して下さるというものでした。相手の反応に左右されるのではなく、本気で「愛したい」という意志に貫かれた、主体的で永続的であると言うこともできます。又、神様の愛は、相手にも主体性を与えようとされます。親が子供に良い教育を受けさせようとしても、子供は親の愛の意味がわからず、勉強させられるとの重荷ばかり感じて逃れようとしますが、自分でそれを しなければならなくなった時、初めて人生や学びに対して主体的になるように、神様は私達が主体的に行動することを求めておられます。 *イエス様への誤解 イエス様に質問した律法学者は、イエス様の言われることを良く理解したので、その知識においてイエス様は「あなたは神の国から遠くない」(34節)と言われました。が、彼は、「あなたは神の国に入る」とは言われていません。おそらく彼は、イエス様を信じて従う道を選ばなかったと思われます。この世の権威と結びつきやすい学問の世界では、「救い主はダビデ王の子孫から・・」と信じられており(サムエル記下7:12-参照)、職人階級出身(大工の息子)のイエス様とメシアは結び付かなかったのでしょう。 *メシアの預言  イエス様は、学者達が重要視しているダビデを引き合いに出しながら、 「詩編110編」を引用されました。神の霊を受けて書かれたこのダビデの賛歌は、「三位(父・子・聖霊)一体の神」を証ししています。36節の最初の「主」は「父なる神」を指し、「わたしの主」と言い表されている方は、(ヘブライ語で「メシア」、ギリシャ語で「キリスト」)「救い主・神の御子イエス様」のことを指しています。 110編は、イエス様が十字架の受難に従順に従われたので、悪に打ち  勝ったことによる栄光として、復活後、父なる神のおられる天に戻られ   たことの預言です。父なる神様は、御子イエス様を愛し、来るべき日に、 サタンを完全に屈服させ、この世界を、御自分の支配下に置かれます。  *メシアの働き   ユダヤ教の有力者達は「メシアは、ローマの支配下で虐げられている自分達を解放し、ユダヤ人国家を作る政治的な王」と考えていました。しかしイエス様が説く「メシア」は、先ず「霊的な救い」を成し遂げる役割でした。サタンの支配下に陥っている人間の苦しみや悲惨さから 人間を霊的に救うことが第一の任務でした。  イエス様は、ダビデがメシアに、霊的な面で「わが主」と呼んで敬意を払っていることを指摘されます。律法学者達の「メシアはダビデの子孫であるべき」ことは二の次です。イエス様が詩編を引用されたのは、聖霊によって、霊である神様の本質やその御心を知り、従う者こそが「メシア」であり、それが「御自分である」ことを示すためでした。   イエス様をメシアとして受け入れない学者達と違い、「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾け」(37節)ました。群衆は、イエス様の御言葉を、サタンに邪魔されずに受け入れることができたのでしょう。  *私達の生きる道 私達は今日の聖書を他人事として聞くならば、それこそサタンの思う壷です。人間を、この世の出来事や自分の利益のことで頭を一杯にさせて、神様を忘れるように仕向け、自分の罪を認めることから遠ざけ、又、自分と同じ罪に他人を引きずりこむような罪が、私達の日常生活に潜んでいないでしょうか? 私達は、イエス様の招きに応える者として導かれています。それによって父なる神様につながることを赦されています。そのことは私達に大いなる平安をもたらしてくれます。又、イエス様に願えば、助け主としての聖霊が私達を助けてくれます。私達は、神様の下での永遠の救いに与っています。その救いを、御自分の犠牲によって勝ち取ってくださったイエス様に感謝しつつ、歩んでいきましょう。