「永遠の命に至る水」  牧師 佐藤義子

/n詩編84:2-8 /nヨハネ福音書4:7-15          /nはじめに 週報の右上にありますように、本日の礼拝がこの伝道所において500回目に当たることを覚えて神様に感謝致します。第一回目の礼拝は、2002年12月1日でした。それから毎週日曜日、休むことなく礼拝が守られてきたことは、ただただ神様の恵みと導きによるものです。この礼拝を通して、一人でも多くの方々が神様と出会い、「永遠の命に至る水を飲む」者とされますよう祈り願いつつ、歩み続けていきたいと思います。 /nユダヤ人とサマリヤ人 今日の聖書は「イエス様とサマリヤの女」の前半部分です。イエス様は、ユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、ファリサイ派の人達との無用の論争を避ける為に、ユダヤを離れてガリラヤに向かわれました。 ユダヤからガリラヤに行く近道は、サマリヤを通る道でした(約三日の道のり)。しかしユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。祖先は同じイスラエル民族でありながら、王国が南北に分裂し歴史の違いもあって、北のサマリヤ人は異民族との混血がすすみ、信仰も異教徒の影響を受けて変質しました。一方、南のユダヤ人は、バビロン捕囚の生活を余儀なくされますが、混血を避け、信仰もエルサレム神殿への思いを貫き、ユダヤ人としての誇りをもって伝統を重んじ、信仰生活を歩み続けていました。ユダヤ人から見れば、サマリヤに住む人々はもう異邦人と同じで、軽蔑の対象でもあり口を聞くことはありませんでした。旅の時も、ユダヤ人はサマリヤを避けて、ヨルダン川を渡る迂回路(二倍かかる)を選ぶことも多かったようです。しかしイエス様と弟子達は、シカルというサマリヤの町に入られました。 /nサマリヤ人の女性 イエス様は旅に疲れて、昔、族長ヤコブが掘ったという井戸の傍に座られました。時は暑いお昼、弟子達は食料を買いに出かけていました。そこにサマリヤ人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。ここで聖書は私達に驚くべき出来事を伝えます。 イエス様がサマリヤ人の女性に声をかけた、しかも「水を飲ませて下さい」と頼んだという出来事です。当時おおやけでの男女間の会話も、ましてユダヤ人とサマリヤ人との会話もあり得ないことでした。女性は、相手が自分達を嫌い、軽蔑しているユダヤ人の男性と見て驚き「どうして私に頼むのですか」と聞き返します。女性は、目の前の水を求める旅人の、のどの渇きに目を向けず、これまでの民族間の敵対関係に目を向けて、「なぜ?」と聞き返しているのです。この女性の応答の中に、私達は人間の持つ「罪」を見ます。イエス様はご自分の疲れやのどの渇きを優先させず、この女性の「魂の渇き」を見抜かれて、女性をその渇きから救うことを優先されました。   /n永遠の命に至る水 イエス様は女性に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の賜物のことを知っていたら</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが、私が誰であるか知っていたら</span>」(10節)、<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの方から私に水を下さいというでしょう</span>」と言われました。「神の賜物」も「私」も、イエス様のことです。誰でもイエス様を知るならば、私達の方からイエス様に願い出て、「水を下さい」と頼むようになります。なぜなら、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。</span>」(14節)からです。 しかし、イエス様から水をいただく前に、私達は、先ず、自分自身のことを知らなければなりません。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である</span>」(ルカ5:31)からです。自分の心・精神・生き方には問題はないと自負する人は、自分の魂の渇きに気付かない人です。しかし自分自身の中に欠けている部分を見出し、自分の魂に満ち足りた思いがないことを知る者は、その欠けた部分を満たして下さるお方がいると知れば、喜んでその方のもとにやって来るでしょう。イエス様は、サマリヤの女性が人目をさけて、炎天下に水を汲みに来なければならない現実を明らかにされていかれます。 聖書は、イエス様こそ魂の飢え渇きを癒して下さるお方であると宣言します。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。</span>」(ヨハネ7:37) /n詩編84:2-8 /nヨハネ福音書4:7-15          /nはじめに 週報の右上にありますように、本日の礼拝がこの伝道所において500回目に当たることを覚えて神様に感謝致します。第一回目の礼拝は、2002年12月1日でした。それから毎週日曜日、休むことなく礼拝が守られてきたことは、ただただ神様の恵みと導きによるものです。この礼拝を通して、一人でも多くの方々が神様と出会い、「永遠の命に至る水を飲む」者とされますよう祈り願いつつ、歩み続けていきたいと思います。 /nユダヤ人とサマリヤ人 今日の聖書は「イエス様とサマリヤの女」の前半部分です。イエス様は、ユダヤ地方で宣教活動をしておられましたが、ファリサイ派の人達との無用の論争を避ける為に、ユダヤを離れてガリラヤに向かわれました。 ユダヤからガリラヤに行く近道は、サマリヤを通る道でした(約三日の道のり)。しかしユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲でした。祖先は同じイスラエル民族でありながら、王国が南北に分裂し歴史の違いもあって、北のサマリヤ人は異民族との混血がすすみ、信仰も異教徒の影響を受けて変質しました。一方、南のユダヤ人は、バビロン捕囚の生活を余儀なくされますが、混血を避け、信仰もエルサレム神殿への思いを貫き、ユダヤ人としての誇りをもって伝統を重んじ、信仰生活を歩み続けていました。ユダヤ人から見れば、サマリヤに住む人々はもう異邦人と同じで、軽蔑の対象でもあり口を聞くことはありませんでした。旅の時も、ユダヤ人はサマリヤを避けて、ヨルダン川を渡る迂回路(二倍かかる)を選ぶことも多かったようです。しかしイエス様と弟子達は、シカルというサマリヤの町に入られました。 /nサマリヤ人の女性 イエス様は旅に疲れて、昔、族長ヤコブが掘ったという井戸の傍に座られました。時は暑いお昼、弟子達は食料を買いに出かけていました。そこにサマリヤ人の女性が井戸の水を汲みにやって来ました。ここで聖書は私達に驚くべき出来事を伝えます。 イエス様がサマリヤ人の女性に声をかけた、しかも「水を飲ませて下さい」と頼んだという出来事です。当時おおやけでの男女間の会話も、ましてユダヤ人とサマリヤ人との会話もあり得ないことでした。女性は、相手が自分達を嫌い、軽蔑しているユダヤ人の男性と見て驚き「どうして私に頼むのですか」と聞き返します。女性は、目の前の水を求める旅人の、のどの渇きに目を向けず、これまでの民族間の敵対関係に目を向けて、「なぜ?」と聞き返しているのです。この女性の応答の中に、私達は人間の持つ「罪」を見ます。イエス様はご自分の疲れやのどの渇きを優先させず、この女性の「魂の渇き」を見抜かれて、女性をその渇きから救うことを優先されました。   /n永遠の命に至る水 イエス様は女性に対して、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが神の賜物のことを知っていたら</span>」、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたが、私が誰であるか知っていたら</span>」(10節)、<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたの方から私に水を下さいというでしょう</span>」と言われました。「神の賜物」も「私」も、イエス様のことです。誰でもイエス様を知るならば、私達の方からイエス様に願い出て、「水を下さい」と頼むようになります。なぜなら、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。</span>」(14節)からです。 しかし、イエス様から水をいただく前に、私達は、先ず、自分自身のことを知らなければなりません。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である</span>」(ルカ5:31)からです。自分の心・精神・生き方には問題はないと自負する人は、自分の魂の渇きに気付かない人です。しかし自分自身の中に欠けている部分を見出し、自分の魂に満ち足りた思いがないことを知る者は、その欠けた部分を満たして下さるお方がいると知れば、喜んでその方のもとにやって来るでしょう。イエス様は、サマリヤの女性が人目をさけて、炎天下に水を汲みに来なければならない現実を明らかにされていかれます。 聖書は、イエス様こそ魂の飢え渇きを癒して下さるお方であると宣言します。   「<span class="deco" style="font-weight:bold;">渇いている人は誰でも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。</span>」(ヨハネ7:37)