「あなたの息子は生きる」 牧師 佐藤義子

/n <span class="deco" style="font-weight:bold;">詩編37:30-40</span> /n <span class="deco" style="font-weight:bold;">ヨハネ福音書4:46-54</span>          /nはじめに ユダヤからサマリヤを通り、目的地のガリラヤに到着したイエス様一行は、ガリラヤの人達に歓迎されました。というのは、イエス様がエルサレム滞在中になさった「奇跡」を見た人達がそこにいて、イエス様の評判が、エルサレムから遠く離れたガリラヤにまで伝わっていたからです。 イエス様は、カナという町に行かれました。ここは、イエス様が最初の奇跡をされた町でもありました。イエス様が町に来られたニュースは、カナから20マイル(約32キロ)も離れたカファルナウムに住む、王の役人の耳に入りました。彼には病気の息子がいて、その病気は悪化し、絶望的な状態でした。彼は息子を助けたい一心でイエス様に会いにやってきました。 /nまちがった信仰 彼はイエス様に、カファルナウムの家に来て息子を癒してほしいと頼みました。ところがイエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない</span>。」(48節)と、厳しい言葉を返されました。 イエス様がこの世に来られたのは神様の御計画によるものでした。その目的は、私達が毎週礼拝の中で「懺悔の祈り」をささげた後に、司会者によって宣言される「罪の赦し」に表わされています。罪の赦しの宣言は、以下の御言葉です。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである</span>。」(ヨハネ福音書3:16-17)。 神様は、罪の中で生き、「死」という形で滅びるしかなかった私達人間の命を救い出して、「罪の赦し」と「永遠の命」を与えて下さるために、イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は、その全生涯を通して目に見えない神様のことを伝え、御自分が救い主として遣わされたゆえに、神様を信じ、御自分を信じるように導かれました。しかし、イエス様のなさる「奇跡」だけを追い求めて、イエス様の語る御言葉そのものには耳を傾けず、イエス様を神の御子として受け入れない人達が沢山おりました。それゆえ、「あなた方は、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。 /nあなたの息子は生きる  王の役人は、愛する息子を失うかもしれないという窮地の中で「主よ、子供が死なないうちにおいで下さい。」と訴え続けました。イエス様は彼を憐れみ、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">帰りなさい。あなたの息子は生きる</span>」と約束されました。この父親にとって、イエス様が自分と一緒に来てくれるのではなく、この「言葉だけ」を与えられたことは予想外だったことでしょう。しかしこの父親は、イエス様の言葉を信じて、息子のもとへ帰って行きました。 帰る道すがら、彼は迎えに来たしもべ達に会い、息子が危篤状態を脱したことを知りました。時間を確かめると、イエス様から「息子は生きる」との約束の言葉をいただいた丁度その時間でした。 /n信仰の変化 イエス様は、私達の目がイエス様にしっかりと向けられ、私達の心がイエス様に服従し、イエス様から離れない完全な信頼をもってイエス様にお委ねするという信頼が起こされるように奇跡の業を用いられます。 王の役人が最初にイエス様のところに来た時の信仰は、息子の病気を癒してほしいと、イエス様を「奇跡を行う方」として信じる信仰でした。ところが、あとから与えられた新しい信仰(53節:彼もその家族もこぞって信じた信仰)は、自分の利益のみを求める信仰ではなく、イエス様の中に、神様だけが与えることのお出来になる、最善で、完全なものを認める、ゆるぎのない信仰です。  この信仰は、私達の生涯の中で、どんなことが起ころうとも、たとえ、死に向かわなければならなくなったとしても、神様の恵みが私達といつも共にあるという信仰であり確信です。 イエス様は、御自分を求めてくる人々に、その要求を神様への交わりにまで高める道へと導びいてくださるお方なのです。