「偽りの信仰者」    伝道師 平賀真理子

/n イザヤ書10:1-4 /n マルコ福音書12:38-40         /nはじめに  イエス様は「律法学者に気をつけなさい」(38節)と言われました。 「気をつけなさい」は、「じっと見つめてわかる」という言葉が使われています。イエス様が、律法学者をじっと見つめて観察された結果、次の五つのことを挙げられました。「長い衣(学者であることを表す)を着て歩き回りたがる」、「広場で挨拶(地位や権力や財産によって、他人がひれ伏す)されたがる」、「上座(祝い事などの宴会で、その地位の為に来賓としてもてなされたり、更には礼拝でさえも、特別席に座るよう丁寧な扱いを受ける)に座りたがる」、 「やもめの家を食い物にする(当時の男尊女卑のユダヤ社会においては、未亡人は大変弱い立場にあり、社会全体で、彼女達の暮らしを支えていた。そのようなやもめの家に入り込み、宗教上大事なことだからと、彼らは自分達の生活を肩代わりさせていた)」、「見せかけの長い祈りをする」という五つの行動です。 /n罪の性質 最初の三つは、自分の、社会的立場が上であることを見せびらかしたがる具体例と言えるでしょう。彼らは神様を忘れて思い上がり、その地位にあぐらをかいています。究極の姿が「やもめの家を食い物にする」です。又、「見せかけの祈り」とは、イエス様は人間の心を見抜く方なので彼らの祈りが本物の祈りではない(本物の信仰者ではない)ことがはっきりわかったのでしょう。これらの批判は「神の義」から見ての「怒り」といえます。しかし彼らは罪の意識もなく、社会的立場の高さにいい気になっています。その傲慢さこそ神様が最も嫌われるものであり、サタンの性質を受け継いでいるものです。宗教的なユダヤ人達の中で、更に宗教的であろうと期待される律法学者の、その罪の性質を、イエス様は悲しまれたことでしょう。 /n神の掟の根本にある「御心」 律法学者が求めたのは、「律法の一つ一つをしっかり守るために、深く解釈した上で、細かく規定する」ことでした。それは「律法」が、イスラエルの民に与えられた大切な掟だからです。 しかし、神の掟である律法を、人間の限界ある知性で細かく分析したことから、彼らの姿勢が誤った方向にいってしまったのではないかと思われます。大事にされるべきことは「神様の御心」です。最も貧弱であったイスラエルの民を、神様は選び愛されました。そこから全人類へと救いのご計画を進める為でした。そのために「律法」を授け、忠実であることを望まれたのです。律法の一つ一つが神様の愛の発露なら、それを細かく研究することは悪いことではありません。しかし神様の愛の根本は無償の愛であり、それは特に弱い者に対して、最も顕著に表れる性質を持っていることを大前提に、考えておかなくてはなりません。 /n御心を最優先に  イエス様は、神様の御心は、無償の愛から来る「人間の救い」であることを明らかにされました。(参照:ヨハネ4:34)。この世の価値観で、自分を大きく見せようとしていた律法学者達は、サタンの誘惑から逃れられず、神様の御心について考えることを忘れさせられているようです。 (神様の愛の性質から、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められます)。   律法学者を現代にあてはめるならば、牧師・伝道師・聖書学者などですが、神様の御言葉を本来良く知っているはずなのに人の目ばかり意識し、神様の前に正しく行わなかった者は、「人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(40節)とあります。しかしこの御言葉は、すべての信仰者(皆様)にも向けられています。なぜなら信仰者は、家庭・学校・職場などで、御言葉を先に聞いて知っているはずの立場にいるからです。 /n偽りの信仰者とならないために 私達は、御言葉を正しく知り、聖霊をいただけるように祈り求めることが赦されています。聖霊によって私達は、信仰に応じて神理解が与えられます。信仰に応じて神様への理解が深まっていくのであれば、日々、祈りを深め、神様に願い続けたいと思います。そして、人の目でなく、神様の目を意識した生活をするために、日々、御声を聞き、一貫してへりくだりの道を歩まれたイエス様に従って歩んでまいりましょう。