「マリアの香油」  倉松 功先生

/n詩編145:1-16 /nヨハネ福音書12:1-8         /nはじめに  ヨハネによる福音書は、11章から12章11節まで、ラザロとその姉妹マルタとマリアのことをくわしく語っています。彼らが住んでいたのは、エルサレムの南東約3キロ離れたベタニアという村でした。主イエスはエルサレムに入城する前にも、その後でも、ラザロの家を訪ね、お世話になっていたように思われます。そのラザロについて、今読んでいただいた聖書にはこう記されています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせた(復活させた)ラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。</span>」(12:1-2)  その時マリアが純粋で極めて高価なナルドの香油を一リトラ(約326グラム・大きめのコップ1杯位)持って来て、それを主イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのです。多量の香油であったのでしょう。ラザロの家は香油の香りで一杯になりました。 /nユダの非難  その時、後になって主イエスを裏切ることになるユダが、「その香油を300デナリオン(高く見積もって300万円・低く見積もっても150万円)で売り、貧しい人達に施しをする方が良かった」と非難したのです。マタイ福音書やマルコ福音書の並行記事では、ユダだけでなく他の弟子達も一緒に、(そこにいた人々も)マリアの行為に対して非難したと伝えています。 この非難に対してヨハネ福音書の記者は、二つのコメントを付しています。 /n二つの添え書き 一つは、ユダは貧しい人々のことを心にかけていたわけではないこと。もう一つは、彼は盗人で、主イエスと弟子達の財布を預かっていながら、中身をごまかし自分勝手に使っていたので、それをごまかすために、尤もらしいことを言っているというものです。このことは、ユダと同じような非難をした人達にも、多かれ少なかれ、同じようにいえるかもしれません。   /n信仰と行為   ユダに対する聖書の添え書きは、ユダの言葉は純粋なものではない、人間の好意が必ずしも純粋なものではないことを感じさせるわけです。しかしユダの本音はどうであれ、ここには「信仰と行為」あるいは「主イエスの福音と良き行為」との関係について重要なことを明らかにしているように思います。というのは、このマリアの香油のことがあった前後に、主イエスは弟子達に新しい掟をお与えになっております。その新しい掟とは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる</span>。」(13:34-35)です。 更にマタイ福音書やマルコ福音書によると、香油の出来ごとの前後に、主イエスは最も重要な二つの掟・二つの愛の戒めを示されました。   第一の掟は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主なる神を愛しなさい</span>」。それに続いて第二は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">隣人を自分のように愛しなさい</span>。」でした(マルコ12:29-参照)。 主イエスは、山上の説教以来、これまでも繰り返し隣人愛を語っておられます。従ってユダが、300万円に換金して貧しい人々に施した方がキリストの教えに叶っているのではないか、という愛の実践を提案したのはわからなくはないようにも思われます。 /n香油に対するキリストの態度   さてキリストは、この出来事の中にあって、どのような態度、言葉を言われたのでしょうか。キリストは、ユダの発言には目もくれていません。そしてマリアの行為を承認し、マリアは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたし(キリスト)の葬りの日のために、それを取って置いたのだから</span>」(7節)と、マリアの行為が、キリストの死、埋葬の準備のためのものだと言われたのです。確かにキリストはこの出来事の前に三度もご自分の苦難、十字架の死と復活について弟子達に予告しています。マリアも聞いていたでしょう。 その予告を聞いて、ペトロは、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とキリストをいさめました。さらに、キリストに従っていた人達はそれを恐れていた、と聖書は記しています。 ところがマリアは、キリストの受難の予告に従って、<葬りのために死の体に油を塗る>その備えを、すでに生前からキリストの体にしているのです。これがキリストの言われた「わたしの葬りの日のために、香油を取って置いた」という言葉です。 /nマリアの感謝の喜び・信頼の喜び マリアが、キリストのいわれる言葉をどこまで理解していたか分かりません。少なくてもキリストが苦難を受けられるのではないかということは予感していたでしょう。 私はむしろ、マリアの香油は、彼女達の兄弟ラザロがキリストによってよみがえらせられた(復活させて下さった)ことへの感謝、御礼もあったのではないか。そしてキリストは、再三、ラザロの家で、ラザロの家の人達に福音を語っていた。マリアは身近に福音に接し、主イエスが真に救い主である、キリストであると信じて受け容れた感謝の喜び・信頼の喜びが、ラザロの復活に対する感謝と共に、香油を塗るということの中に表れているように思われるのです。 私達は、キリストの死と復活の意味を見極め、充分に理解することは容易ではありません。しかし主イエス・キリストに信頼し、感謝することをマリアは教えているように思われるのです。ともあれキリストは、マリアの行為を御自分の葬りの備えと受けとめたのです。 /n二つのこと そして二つのことを仰せになりました。一つは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。</span>」(8節)です。「これからわたしは十字架の死を遂げる」ということが背後にあって、主イエスはこう語っておられるのでしょう。 「十字架の死」は何を意味していたのでしょうか。それは、ユダのような偽善者のみならず、不十分な良き言葉・良き行為しか出来ない私達の罪を赦し、救いの御業を成し遂げ、十字架の死と復活を遂行するということがキリストの思いでありました。そこで「私はいつも一緒にいるわけではない」と、おっしゃっているわけです。    さらに付け加えるならば、このキリストの十字架の苦しみは、まさに一回限りのことでありました。「一緒にいるわけではない」は、主イエスは死んでいなくなるということではなく、その死は、ユダや弟子達は勿論、私達に至るすべての人間、さらに(パウロが力を込めて語っているように)造られたもの、被造物すべての罪の贖い、赦し、そして新しい命を与えるために、父なる神が、御子・主イエスに託した事柄であったのです。そういう重大なことを、マリアをはじめ弟子達は知っていたかどうか わかりませんが、そういう思いが、マリアが香油を塗るという行為と共にあったということです。 /n記念として語り伝えられる ところで、今一つのことを申し述べねばなりません。それは、ヨハネ福音書が記していないことですが(マタイ・マルコ両福音書が記している)、主イエスは、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として(注:つまりキリストの福音を思い起こすことと共に)語り伝えられるであろう</span>」と言われました(マルコ14:9)。これは、「キリストの死を記憶するため」に思い起こすことを言っているのではありません。「福音が宣べ伝えられる所では、香油の出来事が記念として語り伝えられる」は、もう少し重要なことを言っているように思います。 /n福音が宣べ伝えられる所で 「福音が宣べ伝えられる所で香油の出来事が語られる」という「福音」とは、キリストご自身のことであり、キリストによって「私達人間の罪の赦し」と「死からの解放」と「永遠の生命」が与えられるということです。その福音が語られる所で、この香油の出来事が語られるということは、この行為は福音にかかわる行為であったということです。 まとめて申しますと、十字架の死と復活を遂げたキリストが「福音」です。そのキリストの死の直前、キリストの死の苦難を予感しながら、キリストが救い主であることに感謝をして、キリストに対する信頼を、香油を注いで表わしたマリアは、福音であるキリストを、そういう形で受け容れているわけです。キリストを信じる信仰、それが、このマリアにおいては、香油を注いで感謝をすることであったといってもいいのではないでしょうか。 繰り返しになりますが、マリアの主イエスに香油をぬるという出来事は、マリアの、主イエスに対する信頼と溢れる感謝、キリストと実際に接した感謝、それらを含めたマリアの信仰をここで語っているように思います。 私共のキリストへの感謝、私共のキリストに対する信頼、そういうものを、マリアは、私共の模範として私共に示しているように思います。