「命のパンであるキリスト」  牧師 佐藤 義子

/n詩編78:23-29 /nヨハネ福音書6:32-40         /nはじめに 日本基督教団のカレンダーでは、8月第一日曜日は「平和聖日」として平和について考え、祈る時でもあります。 旧約聖書で「戦争」に対立する言葉として使われているのが「シャローム」というヘブル語です。「シャローム」は、何かが欠如したりそこなわれたりしていない状態、満ち足りている状態をさす言葉で、そこから無事とか平安、健康、繁栄、安心、和解など、人間の生きていくあらゆる領域にわたって、本当の意味で望ましい状態を意味し、精神的な平安の状態だけではなく、社会的に具体的・福祉的な意味などすべてを含んでいる言葉です。 このような意味での平和は神様の業であり神様の賜物でした。この賜物は、神様が一方的に与えるものではなく、神様に対する人間の態度と深い関係がありました。すなわち、人間が神様の意志に基づいて正義を行い、神様との契約関係を正しく保つところに与えられるものでした。 イザヤ書に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正義が作りだすものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である</span>」(32:17)と記されています。平和のない現実の中で、平和を真剣に問題にしたのは預言者です。彼らは人々が神のもとに帰ること、又「正義によって平和をもたらすメシア」の到来を語り、平和を待望しました。又、神様の意志に基づいた本当の平和の確立のために、見せかけの平和状態や偽りの平和の預言に対して、戦争と滅亡の預言を語ることもありました。 旧約聖書では、「真の平和」は、人間の不義と悪の現実に対する神様の裁きと赦しのわざによって、苦難のその先に、初めて実現される救いとして待望されています。 新約聖書でも「平和」は、人間の生の全領域にわたって神様の意志に基づいた真の望ましい状態をさしている言葉です。 「シャローム」は、イエス・キリストによって与えられる神様の愛と救いの現実そのものです。 本日の平和聖日にあたり、私達は祖父母や両親を通して聞いてきた戦争の悲惨さを二度と子供達や孫たちに味わわせない為にも、社会の一構成員として、世界の動向や自分の国の在り方に関心を持ち続けなければならない責任を思います。しかしそれと同時にクリスチャンとして、正義の伴わない見せかけの平和ではなく、イエス・キリストを信じることによって与えられる神様の愛と救いがもたらす「真の平和」を知る者として、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">平和を実現する人々は幸いである</span>」(マタイ5:9)との御言葉のもとに歩むことが出来るようにと祈るものです。 /n命のパンであるキリスト 今、読んでいただいた聖書の前に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">はっきり言っておく。あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」(</span>26節)とあります。 群衆は、自分達の空腹を満たすためにパンをくれるお方としてイエス様を見ました。イエス様は確かに肉体的な欠乏を補って下さいましたが、その奇跡の力を通してイエス様が神の子である(救い主である)という「神の力」を見ることが出来たならば、彼らはイエス様を通して神様を見る信仰へと高められていくことが出来たはずでした。しかし群衆は、神様が下さる救いを求めて来たのではなく、満腹させてくれた「パン」(自分達の利益につながる食べ物)にとどまっていたのです。 イエス様はそれを見抜かれました。それゆえに食べたら終ってしまうパンを求めるのではなく、イエス様がその為に来たところの「永遠の命に至る食物」の為に働くように教えられました。「では何をしたら良いか」と尋ねる群衆に、イエス様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である</span>」(29節)と答えられました。神様が「まことのパン」を与えてこの世に命を与えること、「まことのパン」「命のパン」とは、イエス様ご自身のことであり、イエス様を信じることによってイエス様とつながり、そのことによって命を受けることを教えられたのです。