「神から出た教え」  牧師 佐藤 義子

/n詩編146:1-10 /nヨハネ福音書7:10-18 /nはじめに  今読んでいただいた聖書は、ユダヤ教の三大祭りの一つである、仮庵の祭りでの出来事です。仮庵の祭りについては、旧約聖書の申命記(16:13-)、レビ記(23:34-43)・民数記(29:12-14)にも記されていますが、モーセの時代以後長い間この祭りは行われず、バビロン捕囚から帰ってから再開されたことがネヘミヤ記8章で伝えられています。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">山に行き、オリーブの枝、野生オリーブの枝、ミルトスの枝、なつめやしの枝、その他の葉の多い木の枝を取って来て、書き記されている通りに仮庵を作りなさい。(略)こうして人々はそこで過ごした。それはまことに大きな喜びの祝いであった</span>。」  この祭りは後に、イスラエル民族がエジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅を続けた時、天幕を張りテント生活をしてきたことを思い起こす時として過ごすようになりました。イエス様の時代も、この祭りの時には、おびただしい巡礼者が、エルサレムに集まりました。 /nイエス様と兄弟達との根本的な違い 7章の初めには仮庵の祭りが近づいてきたので、ガリラヤにいたイエス様の兄弟達も祭りにいく準備をしていたとあります。兄弟達はイエス様に、ガリラヤのような田舎ではなく、大勢の人達が集まるエルサレムに上ってイエス様の実力を示し、自分がメシアであることを世間にアピールしたらどうだと促しています。私達の社会では力のある人が歓迎され、力のある人の所に人は集まります。イエス様の兄弟達は、まさにこの世の生き方に倣い、イエス様の力を世間に見せつけて人々の心をつかめと勧めたのです。それに対してイエス様は「私の時はまだ来ていない」と拒否されました。 「私の時」という「時」は、御自分のことをはっきりとおおやけに示す『時』のことです。それは十字架への道が開始される時でもあります。イエス様の「時」は神様がお決めになることであり、イエス様は決められたことに従順に従うだけなのです。兄弟達はこの世に同調し、この世の流れにのって生きているのでこの世との矛盾も戦いも抵抗もありません。 しかしイエス様は、この世が行っている悪をはっきりと指摘するので、この世はイエス様を憎みます。兄弟達の生き方は、人々が賞賛するやり方であり判定基準はこの世の人々に委ねる道です。イエス様はこの世の根本的な間違いを指摘し悔い改めを求められます。聖書は、「兄弟達もイエスを信じていなかった(神の子救い主として)」と証言します。 /n「神から出た教え」   今日の聖書では、祭りに行かないと答えたイエス様が、その後人目を避けてエルサレムに上り、祭りの中頃、神殿の境内で、人々に旧約聖書から教えられたと伝えています。それを聞いたユダヤ人達はイエス様が学問をしたわけでもないのに聖書を良く知っているので驚いたと記されています。それに対して、イエス様はこう言われました。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」</span>  イエス様の教えの中に神ご自身の御声を聞くかどうかは、その人が、神様との生きた交わりをもっていること、本当の信仰を持っている者、神様の御心を行おうとする者であるかどうかが問われます。   私達の語る言葉が人間から出ているなら、その言葉はその語った人に帰っていきます。けれどもその言葉が神様から出てくるなら、それは神様の栄光を表わし、目を神様に向けさせ、神様に対する感謝と神様への愛を引き起こします。自分を高めようとする者は、真理を手に入れることは出来ません。神様の栄光を表わそうとする者、神様を中心として歩む者だけが真理にとどまることをイエス様はここで教えておられます。 私達は、自分の意志を貫くことを最優先に考えたがります。しかしその前に先ず「イエス様のように神様の御心を行う者になりたい!」との願いと祈りをもって、今週の歩みを歩んでいきたいと願うものです。