「真理を知り、自由になる」  牧師 佐藤義子

/n詩編65:6-14 /nヨハネ福音書8:31-36 /nはじめに  先週の礼拝で、イエス様の「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ</span>」との御言葉を学びました。イエス様を信じて従う者は、光であるイエス様といつも一緒に、明るい中を歩むことが出来るという約束でした。今日の聖書は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしの言葉にとどまるならば、あなた達は本当にわたしの弟子である。あなた達は真理を知り、真理はあなた達を自由にする。</span>」というイエス様の約束の言葉です。 /n約束の条件  先週と同じように今日の御言葉の約束も、条件付き(?)です。もし、「イエス様の言葉にとどまるならば」、そうするなら、「私達は真理を知ることが出来、自由になる」のです。「とどまる」とはどういうことでしょうか。それは途中でやめないで、初めから終りまで同じように信頼し続けるということです。イエス様の言葉の中に根をおろして、そこにとどまり続けることです。イエス様の言葉の中に根をおろした時、イエス様の言葉が私達の行動を導きます。イエス様の言葉が私達の思いや私達の意志を動かします。そして私達のイエス様への愛を大きく成長させて下さるのです。 /n私達の行動原理  イエス様を知らなかった時、私達は自分の行動を決定するのは、それ迄、親や教師、友人・知人を通し、又、さまざまの情報などにも影響を受けながら形成した自分なりの価値基準に基づく判断でした。しかし聖書は今、「イエス様の言葉の中に根を下ろして真理を知るように」と招いています。私達の思いや意志の決定が、自分が作り上げて来た価値基準や行動原理によらずに、イエス様の言葉によって決定するように招いているのです。 なぜならイエス様に信頼し続けるならば、私達は真理を知ることが出来るからなのです。真理とは、嘘・偽り・にせものではなく、本当のこと、本当のもの、真(まこと)のこと、絶対的な真理です。 イエス様は、同じヨハネ福音書で「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は道であり、真理であり、命である</span>」と語られました。真理とはイエス様ご自身の中にあるものです。 /n誰かの奴隷になったことはない(?)  イエス様は、「真理はあなた達を自由にする。」と言われました。ここにおられる方は、御自分のことを「自分は不自由である」とは感じておられないでしょう。聖書に登場するユダヤ人達も、イエス様にこう答えました。「私達はアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。あなた達は自由になるとどうして言われるのですか。」と逆に質問を返しています。 /n罪の奴隷  イエス様は、自分達は自由な者だと主張するユダヤ人に対して「<span class="deco" style="font-weight:bold;">罪を犯す者は罪の奴隷である。</span>」と断言しました。この場にいたユダヤ人は幼い時から「律法」を教えられ、おそらく、きびしく律法を守ってきたとの自負があったでしょう。しかしイエス様は、あなた達は罪の奴隷となっているから、真理を知ることによって自由になりなさいと言われたのです。パウロが「<span class="deco" style="font-weight:bold;">私は自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする</span>」と告白しているように(ロマ7:15)、愛そうと思っても愛せない。赦そうと思っても赦せない。裁くのをやめようと思っても裁いてしまう。これは自由を失って、罪の力につながれている状態です。イエス様は、そういう私達を、「罪の奴隷」と表現されているのです。 /n罪の鎖を断ち切る「十字架の死」  この私達をつなぎ止めている罪の鎖を切り離し、私達を罪の奴隷から解放して下さる唯一のお方がイエス・キリストです。イエス様こそ私達人間を罪から解放して私達を自由にするため十字架にかかられました。「十字架の死による、私達の罪の赦しと贖いを信じる」信仰によって、私達がつながれていた罪の鎖が断ち切られるのです。その時、御言葉が、罪に支配される行動原理を打ち破り、イエス様の教えに従う新しい行動原理を打ち建てるのです。御言葉にとどまり続けましょう!