「神の栄光を見る」  牧師 佐藤 義子 

/nエレミヤ書 1:4-10 /nヨハネによる福音書 11:28-44 /nはじめに  日本キリスト教団では、10月第二日曜日を「神学校日」「伝道献身者奨励日」と定め、神様の御用の為に自分の生涯を献げることを奨め励まし、又、神学校を覚えて祈り、献金を通して支える日でもあります。私達の伝道所では四年前、遠藤兄が献身されました。現在、卒業論文を終えて、来春伝道者として新しい一歩を踏み出す予定です。   伝道者として生涯を神様に献げる、との献身の思いがどのように与えられるのか、100人いれば100通りの献身の姿があります。本日読んだエレミヤ書では、神様が、母の胎内に入る前からエレミヤを預言者として選び出していたと伝えています。その召命に対して、エレミヤは「私は若者にすぎない。私は語る言葉を持たない」と断わりました。神様はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。私があなたを誰の所へ遣わそうとも、行って私が命じることを全て語れ。彼らを恐れるな。私があなたと共にいて必ず救い出す」と約束されました。   預言者エレミヤの生涯は大変苦労の多いものでした。エレミヤは、次のように告白しています「私は一日中、笑い者にされ人が皆、私をあざけります。主の言葉のゆえに、私は一日中恥とそしりを受けねばなりません。主の名を口にすまい、もうその名によって語るまいと思っても、主の言葉は、私の心の中 骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして 私は疲れ果てました。私の負けです。」(20章)。  私の母教会の牧師(大谷賢二師)も、戦中・戦後の伝道生活の中で警察から目をつけられたり、暴力団からのいやがらせが多くあったそうです。その地域は、多くの伝道者が伝道をあきらめて撤退した地域と聞きました。大谷師は多くの困難に耐えて、ついに毎週100人以上で礼拝をささげるまでになりました。勿論、神様の御業が働いた結果です。 伝道者が困難を乗り越えられるのは、神様が共にいて下さり、助けて下さり、無価値な自分を用いて下さることの光栄と喜びがあるからといえるでしょう。今日の日を覚えて、伝道者が多く起こされるよう祈っていただければ幸いです。 /nラザロの復活  イエス様がマルタとマリアのところに到着した時には、ラザロは既に墓に葬られ4日もたっておりました。イエス様が来られたことを聞いたマルタはすぐ村の入り口まで迎えに行き、そこでイエス様から「ラザロは復活する」と聞かされます。マルタは、復活は終末の時のことだと理解します。それに対してイエス様は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われました。 /n「私を信じる者は、死んでも生きる」 イエス様のこの言葉はわかりにくいのですが、その理由として私達は「今、自分は生きている」と考えているからです。私達は肉体的に生き、呼吸していれば「生きている」と考えますが、イエス様は違います。 私達が神様から遠く離れて生きている状態は「死んで」おり、その死んだ状態の人間を、「生きた」状態に回復させる為にイエス様が来られたのです。人間は生まれながら罪の中にあり、神様から離れた死の状態にあるので、そこからよみがえらなければ命はなく、イエス様が命の始まりであることを教えています。 /n「信じるなら神の栄光が見られる」   イエス様がラザロの墓の石を取り除けるように言った時、マルタは、遺体の死臭を気にしました。しかしイエス様は、「もし信じるなら神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われ、石がのけられると、まず天を仰いで神様に感謝の祈りを捧げました。 祈りの後に、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれるとラザロは生き返り、墓から出て来たのです。これがラザロの復活の出来事、奇跡です。この奇跡が神様の栄光を表わしています。ここには、神様の力が現れ出ることに よって、神様が崇められ、神様の御名が称えられます。イエス様はこれらすべてのことを神様に願い、神様が聞き届けられることを確信して、この奇跡を通して、信じる者に神様の栄光を見させられたのでした。