宗教改革記念礼拝 「神の言葉で生きる」

                 <span class="deco" style="font-weight:bold;">                東北学院大学 佐々木哲夫先生</span></span> /n申命記8:1-10 /nマタイ4:1-11     /nはじめに  本日は宗教改革記念の礼拝です。 今を去ること約500年前の1517年、マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に、95カ条の提題の紙を貼りだしたことを記念しての礼拝です。  宗教改革は、ルターにとどまらず、その後のジャン・カルヴァンの改革に至るまで、広範囲に及ぶものでありました。宗教改革の全貌を取り扱うには時間的な制約もありますので、本日は、宗教改革の中でも重要な事柄であった「聖書の言葉に基づく信仰」という点に注目して考えたいと願っております。 /n聖書の権威 ルターが修道士になった頃もそうでしたが、カトリック教会のミサではラテン語の聖書が用いられ、ラテン語で典礼が行われていました。 宗教改革の50年ほど前、1455年、ドイツで印刷技術がグーテンベルクによって発明されていましたので、聖書はすでに印刷されておりました。しかしその聖書は、ラテン語の聖書でした。ドイツの人々はドイツ語を母国語としていましたので、ラテン語を必ずしも理解出来たわけではありません。聖書を手にすることもむつかしい。手にしたとしてもラテン語で書かれていたので読むことも出来ない。そういう環境におかれていたのです。 おそらく神の言葉に触れるのは、司祭の、日常の言葉を通してであったと思われます。人々は、神から遠い位置に置かれていたのです。 しばらくして1537年、ルターは、「シュマルカルデン信条」を記して公会に提出していますが、その中で次のように記しています。 「神の言葉が、教会の教えと信仰告白を確立する。それは天使であってもくつがえすことが出来ない」。すなわち教皇も、教会会議も、それが最終的な権威ではなく、教会におけるすべての権威の上に聖書の権威を置き、聖書の権威に服すべきであることを主張したのです。 /n『人はパンだけで・・・ない』と、(旧約聖書に)書いてある。 「聖書の言葉に基づく信仰」という理念は、ルターが言った言葉ですが、それはルターが初めてということではありません。すでに、イエス・キリストに見られます。本日の聖書に「イエスはお答えになった『人はパンだけで生きるものではない。』(マタイ4:4)とありますが、この言葉は、ことわざになっているほどに有名です。インターネットで調べますと(ことわざ辞典)、次のように記されておりました。「これは新約聖書の言葉である。人は物質的な満足だけを目的として生きるものではなく、精神的な満足を得るためにこそ生きるべきである」。 日本文化の価値観の中の一つに「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。人は生活が楽になって初めて礼儀に心を向ける余裕が出来るのだということです。そういう日本の中で「人はパンだけで生きるものではない」と、まるで正反対の価値観を語ると思われることを言いますと、抵抗感を感じる人もいるかもしれません。 「パン」か、「神の言葉」か、という二者択一では無くて、人はパン「だけ」で生きるのではないというのですから、パンも、神の言葉も、両方、必要だと説明する向きもあるかと思われます。  このマタイ福音書の箇所を良く読みますと、イエス・キリストとサタンが議論している場面で、サタンは自分に従わせようとしてイエス・キリストを説得します。イエス・キリストは、旧約聖書の言葉で応じるという構図になっています。よく読むとイエス・キリストは<span class="deco" style="font-weight:bold;">「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』と書いてある</span>。」そうイエス・キリストは言うのです。これは、イエス・キリストの言葉というよりも、旧約聖書の言葉を引用しているのです。ある意味では、イエス・キリストもサタンも、議論の前提として、旧約聖書を置いているということですので、私達もこの箇所を理解するためには旧約聖書を理解しなければならないということになると思います。  そこで、申命記8:3-10をもう一度読みます。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。</span>」 /n「神の言葉」が先立って必要である  この申命記は、モーセによってエジプトから導きだされ、荒れ野をさまようイスラエルの民たちのことが言われているのです。あのイスラエルの民は、エジプトから出て、荒れ野でひもじい思いをしていました。そして彼らはつぶやきます。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あの時は肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」(出エジプト記16:3)。 こんな不平を、イスラエルの人々は指導者であるモーセにつぶやいた。 「腹が減った。奴隷であったとしてもエジプトにいて、腹一杯食べた時のほうが良かった」と不平を言った時に、神が与えたのが、朝に「マナ」、夕には「うずら」だったわけです。マナはパン、うずらは肉として与えられたものです(森永製菓のビスケット「マンナ」がここからとられたのは有名な話)。  神が食べ物を与えた。人々がそれを食べた。その時に、申命記の「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる</span>」と語られているのです。 驚くべきことに、生きる為に必要なパンと肉が与えられた。すでにパンと肉が与えられた人々に、その言葉が語られた。「パン」が必要か、「神の言葉」が必要か、ではなくて、すでにパンを与えられた人々に、『人はパンだけで生きるのではない』と語られたのです。すなわちパンか、神の言葉か、ではなく、「神の言葉が先立っている、先立って必要だ」ということをこの時に語られたということです。 /nキリスト御自身の言葉 ところでその後、イエス・キリストは劇的な変化を示します。 どういう変化かと申しますと、旧約聖書から引用するのではなくて、「ご自分の言葉」によって言葉を伝えている。ガリラヤ湖畔の山上において、イエス・キリストは民衆や弟子達に語るのです。 <span class="deco" style="font-weight:bold;">「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。その日の苦労は、その日だけで十分である。</span>」(マタイ6:31-) ここでは、イエス・キリストはもう旧約聖書から引用すると言う形ではなくて、自らの言葉として語っているのです。 /nキリストの教え 二つの点に注目したいと思います。 第一は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その日の苦労はその日だけで十分である</span>」。 今日のんびりと過ごしなさいと言う意味ではありません。一日の内にはかなりの労苦がある。苦労がある。苦労という言葉を直訳すると「恨みや悪意」という意味で用いられる言葉です。ですからそうなまやさしい苦労ではないということが想像されます。 第二に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">思い悩むな</span>」。 心配するな、心引き裂かれて思い煩うな、と、イエス・キリストは自分の言葉でそう言っているのです。心配事はその日だけにしなさい、と言っているように聞こえます。それはそうです。しかしそれが出来ない。それこそ、それが出来れば苦労がないのです。ストレスがたまる、心が折れる、ということを経験していますので、そうは言われてもそう簡単には出来ないとの気持が起きるのですが、イエス・キリストは視点を変えて見なさいと言います。 26節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか</span>。」 28節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ</span>」。   自然を見よ。鳥を見よ。花を見よ。それはある程度、効果があるとは思います。実際、山に登って気分が良いとか、気分転換になったと言う人は少なからずおります。しかしここで大切なことはその根底にある事柄です。 /n神と共に生きている。だから、何よりもまず・・ イエス・キリストは告げます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる</span>」(同32-33)。 イエス・キリストは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その日の苦労は、その日だけで十分である</span>。」と語りましたが、当てのない楽天的な言葉で語ったわけではない。一生懸命生きよ、というのですが、しかし単に励ましているのではない。そこには秘訣がありました。 一人だけで一生懸命生きているのではなくて、あなた方に必要なことをご存知であり、みな加えて与えられる「神」が共に生きている。神と共に生きている。だから、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。ということが肝要なのだというのです。 さきほど私が述べたような理屈は、まさにイエス・キリストの言葉でいえば、「信仰の薄い者たちよ」と一蹴されてしまうことでしょう。 否むしろ、何よりも「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国と神の義を求めなさい</span>」というのは、実に信仰者に与えられている秘訣なのです。 さて、イエス・キリストはこのような言葉を、旧約聖書と同じ権威をもって人々に語りました。初代教会は、そのことを正しく理解しました。すなわち、旧約聖書と新約聖書を等しくキリスト教の「正典」と定めたのです。「正典」というのは、キリスト者の信仰と生活の規範・物差し・基準ということです。  ルターは、その聖書の言葉を、「堅き岩」、「土台」、「物差し」、「規準」としたのです。  私達も、宗教改革の伝統に生きている教会として、改めて、旧約聖書・新約聖書の言葉を土台として生きている、ということを再確認したいと願うのであります。