「信仰の法則」   牧師 佐藤 義子

/nイザヤ書46:1-4 /nロマ書3:21-28   /nはじめに 日本キリスト教団では、11月の第一日曜日を「聖徒の日」と定め、先に召された信仰者の方々を記念し、礼拝をささげています。私達が告白する使徒信条の中に、「聖徒の交わりを信じる」とあります。教会は、「同じ信仰を告白する者の群れ」であり、「イエス・キリストを頭(かしら)とし、私達はキリストの体・肢体の一部」であると聖書は教えています。この教会において、信仰を与えられた者は、聖なる者(聖徒)とされています。  使徒言行録によれば、「聖徒」達は主にある兄弟姉妹とされて共同生活をし、互いの持ち物を持ちより、必要に応じて分け合い、喜びとまごころをもって食事をし神を賛美していました(2章)。又使徒パウロは、貧しいエルサレム教会を援助するために、伝道旅行をしながら募金を集めました。現代の諸教会においても「聖徒の交わり」は豊かに継続されています。  この「聖徒の交わり」は、今生きているキリスト者に限定されず、歴史的な時間と死をこえて、先に召された方々をも含んでいます。本日ここに写真を飾った方々は、「主の復活の証人」として生きたクリスチャンであり、この方々の存在があったからこそ、ご家族の方々が信仰を継承され、毎週の礼拝の恵みにあずかっていることを思い、神様に感謝するものです。     二年前に召された平野武夫兄は、入院される迄、羽黒台の御自宅から伝道所に通われ、私達と共に礼拝をささげられました。御自身の賜物である「塗装」の業を教会の為に喜んでささげて下さり、看板・壁・門・玄関の扉等を塗り変えて下さいました。教会墓地の草取りにも積極的に参加され、夏の暑い日々をお一人で墓地に通われたこともありました。武夫兄を思い起こすことによって、改めて、「奉仕」の姿勢、あるべき姿を示されます。 /n聖徒 今日の聖書は、なぜ私達が本来「聖」なる者ではないにもかかわらず、聖とされて、聖徒の一員に加えられたかが語られているところです。  神様は、世界に罪が増大していく中で、人々が神様を信じて正しく生きる為に、多くの民族の中から一つの民族(イスラエル民族)を選び出して「律法」を与えられました。なぜイスラエル民族が選ばれたのでしょうか。申命記にこう記されています。 「主が・・あなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・主は力ある御手をもって救い出された」。 /n「正しい者はいない。一人もいない。」  しかしイスラエルの人々は、正しく生きるために与えられた律法を、守ることが出来ませんでした。<span class="deco" style="font-weight:bold;">罪が支払う報酬は死であり</span>(ロマ6:23)、滅びです。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">正しい者はいない。一人もいない</span>。」(同3:10)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">人はみな、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている</span>」(同23)とあるように、すべての人間は罪の結果、死によって滅びるしかありませんでした。 /n救いの道 滅びるしかなかった私達人間に対して、神様は救いの道を開いて下さいました。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">ただ、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる</span>」(同24)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません</span>。」(同22)、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました</span>」(同25)と、あるように、神様は私達人間を救うためにイエス・キリストを遣わし、「十字架の死」という「贖(あがな)いの業」を通して、私達の罪を赦して下さったのです。 「贖う」とは奴隷が自由になる為に、お金を払って買い戻されるように、神様は私達を罪の奴隷から買い戻す為にイエス・キリストの十字架の死という身代金を用意して下さったことを意味します。そしてこの贖いは「イエス・キリストを信じる者すべて」に何の差別もなく、無条件で、無償で与えられます。この神様からの一方的な恵みによって信じる者は聖とされ、「聖徒」の一員に加えられるのです。