収穫感謝礼拝説教  「宝を天に積む」 倉松功先生(元東北学院院長

/n 詩編104:19-31 /n ルカ12:13-21、33-34   /nはじめに  本日は収穫感謝の礼拝です。収穫感謝祭は国によって守る時期は異なります(ドイツでは10月第一日曜日・アメリカでは11月第4木曜日)。アメリカでは収穫も含めて、その年に与えられた恵みに感謝し、それを聖書に基づいて「施し」という形で感謝を表すということも行われていると聞いています。 秋は農作物や果物が実り、それを収穫する喜び(そして食する喜び)の時です。しかし収穫の喜びは、収穫にあずかる消費者には解らない喜びが、耕作者にはあるだろうと思います。その点で日本の勤労感謝の日は、勤労(働くこと)によって生活を支え、家族を養うことが出来たことに感謝することで、対象が広がった収穫感謝であると思われます。 /nだれに、何を感謝するのか。  収穫感謝であれ、勤労感謝であれ、誰に感謝するのでしょうか。日本では田んぼの神であったり、畑の神であったりしますが、私達は収穫感謝においては詩編にもありましたように、天地を創り自然を創り、自然を支配されている神に感謝するのです。勤労感謝であれば、私達に命を与えて下さり、家族を与え、つとめ(使命)を与えて下さっている神に感謝をするのです。キリスト教においては、天地を創り、自然を創られた神と、私達を創り、命を与え、家族を与えて、社会の一人として生きることを許して下さっている神は同じ神です。 ところで、耕作者でもなく、勤労者でもない者にとっては、感謝祭では何を感謝するのでしょうか。現代のように不況の世の中において、仕事を得られなかったり、得られた仕事も十分ではないという現実もあります。そこで考えたいのは誰に何を感謝するのかです。 神がこの自然を創り、自然を導いており、同時に神が人間を創り、この世界を導いていることに関連しますが、私達はそれぞれ一人の人間として創られています。一人の人間は、職業・仕事の他に、天職としての仕事「つとめ」があります。それは父であり、夫であり、母であり、妻であり、子供であり、家族の一員であり、一人の人間であることを通して他の人に接する、かけがえのない「一人の人」であるということです。 /n報酬を得ていなくても、人には「つとめ」がある。 宗教改革者は、たとえば主婦が台所に立ち、食事の用意をする。あるいは家の掃除をする。「その仕事の中で、その人は神に仕えている」と言いました。それぞれ神によって召された「つとめ」があります。特定な仕事を持っていなくても、報酬を得ていなくても、「一人の人間がそこにいる」ということは、そこに家族を持ち、家族の中にあり、社会の一員としてさまざまな形で人々に接している。そのこと自体、それが与えられたその人の「つとめ」です。金銭の報酬があるなしにかかわらず、男性であれ女性であれ、一人の人間として、さまざまな立場にあることが「神に召された聖なるつとめである」と、宗教改革者達は主張しました。  つまり、収穫感謝は、単に耕作者とか勤労者ということだけでなくて、一人の人間(男性・女性・夫・妻・親・子)であるという、そのことが、神によって召された存在であり、その自分の立場において、それぞれが「つとめ」を果たすことにあります。それぞれが、自分の立場の中で神に仕えているという状況の中で、今日の聖書は、すべての人に向かって、働くことの目的や意味について語っています。 /n宝を天に積む  21節に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者</span>(天に宝を積まない者)<span class="deco" style="font-weight:bold;">は、この通りだ</span>」(今夜、お前の命は取り上げられる)」とあります。つまり私達は、自分の為に富を積む(収穫する・稼ぐ)のではなく、神の前に豊かになる(=神に富を積む)ことを教えられています。  33節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の持ち物を売り払って、施しを必要としている人に施しなさい</span>」「<span class="deco" style="font-weight:bold;">尽きることのない富を天に積みなさい</span>」とあります。(「富」と訳されている語は「富」ではなく「宝」の意味。「富」は、お金や財産を思い浮かべるが、本来の意味はいろいろな「宝」と訳すべき言葉です)。これは、直接収穫したもの、お金・財産を含めて「宝」を天に積みなさいと教えています 「天に」の「天」とは、「神様の前に」「神のみもとに」ということです。  そして31節には「<span class="deco" style="font-weight:bold;">ただ、神の国を求めなさい</span>。」とあります。  神の国を求めることと、宝を天に積むこととはどういう関係があるのでしょうか。 /n神の国を求める 「神の国」という言葉は、キリストが福音を宣ベ伝えられた時、最初の第一声が、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい</span>」でした。神の国は、キリストがそこで支配なさる。キリストと共にそこにある。神の国を求めるとは、キリストを求めることです。キリストを離れて神の国はありません。  「<span class="deco" style="font-weight:bold;">自分の持ち物を売り払って施しなさい</span>」との教えも、キリストに従うこと、キリストを求めることの一つです。しかし、キリストに従うことやキリストを求めることは、具体的なこと・行為だけを言っているのではありません。  まず第一にキリストを信じること。キリストを受け入れること。これが「宝を天に積む」ことの一つであるといえるでしょう。宝を天に積むとは、心の中で、あるいは気持で何かを考えるということではありません。それは、キリストが語られる場、キリストのなさったことが説かれる「礼拝」に参加する、ということになるでしょう。 /n礼拝  「神の国を求める」とはキリストを求めることであり、キリストに従うことだと申しましたが、そのキリストが語られ、キリストがなされたことが説かれるのは礼拝です。礼拝に出席し、礼拝で説かれる御言葉を聴く。もちろん、「聖書を読む」こともキリストを知る、キリストを信じることでは最も重要なことの一つであるといえます。 しかし生きた言葉でキリストにふれるということは、礼拝に出席し、礼拝で説かれる御言葉を聴くということです。そのことがキリストを求め、神の国を求めることであり、そのことが宝を天に積むことです。アメリカにおいてもドイツにおいても、収穫感謝祭は、教会の暦の中に組み込まれており、一年の歩みの中で「感謝する為の礼拝」を守っています。  礼拝に於いて、私達はキリストについて聞くわけですが、何を聴くかといえば、「キリストが私共のために、神によって遣わされて、この世界に来られた」。このことが第一に聞く言葉であり、知らされることです。キリストが遣わされたことによって、私達が神の国を求めることも可能となり、又、キリストを信じることも可能となりました。キリストは、神様から私達に与えられた最大のプレゼントであり、私達はそのプレゼントをいただくことに、神様への最大の感謝があるのです。 /n感謝のみなもと  神様がキリストをプレゼントして下さった。それを私達が受け入れた。これが収穫感謝際の、最初の、そして最終の目的であり、感謝の源であるといえるでしょう。 そういう意味で、神様が、キリストを「救い主」として遣わして下さったことによって礼拝を守っている、ということは大きな感謝です。 そしてキリストが教えておられること「神様を愛し、隣人を愛せよ。」「人にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい」を、更に具体的に、今週も私達の日常生活の中で覚え、又、キリストの教えに従うために、キリストの助けを祈ることが出来るならば、収穫感謝をさらに具体的に、形にあらわすということになるのではないかと思います。

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