「主の救いの実現を信じる」  伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書 52:7-12 /nルカによる福音書 1:26-45     /nはじめに  今日の聖書は、有名な受胎告知の場面とそれに続くマリアのエリサベト訪問の箇所です。マリアが天使ガブリエルの挨拶を受けた時、水汲みをしていたとも言われています(現地には「マリアの井戸」というものがあります)。 私は、婚約中のマリアが水汲みしながらも、新しい家庭生活が祝福されたものになるよう祈っていたのではないかと思います。日常生活の一こまに天使が突然やってきたという出来事は、本当はとても驚かされることです。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる</span>」と、いきなり言われて、マリアは「何のことかと考え込み」ました(29節)。「主があなたと共におられる」の原語は「インマヌエル」という祝福の意味を持つ言葉で、イザヤ書7章にある「救い主の男の子の名前」であることをイスラエル人なら誰でも知っており、マリアもきっと思い起こしたことでしょう。 /n受胎告知 マリアの戸惑いの中、ガブリエルは「<span class="deco" style="font-weight:bold;">恐れることはない。あなたは身ごもって男の子を産む</span>」と告げます。マリアはその預言に「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えます。実際には、まだ夫婦生活をしていないから、そのようなことはあり得ないとの、人間界の常識です。しかしガブリエルは、これは神の霊「聖霊」のなさる業であり人智を越えたことであると宣言し、その証しとして親類エリサベトの妊娠を告げます。(エリサベトは年をとり、妊娠適齢期を過ぎていた)。それを聞いて、マリアは、不妊の女と言われながら「約束の子、イサク」を神様から授かったアブラハムの妻であり、民族の礎となった「サラ」を思い出したかもしれません。 エリサベト妊娠の知らせは、マリアに、人間の知識や行動の限界を悠々と越えて、神様の恵みの業が我が身にも起こるのだ、ということを、理解させることになったでしょう。又、彼女に信仰の素養があったこともその理解を助けたことでしょう。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神にできないことは何一つない</span>!」という言葉を、マリアは本当の意味で心から受け入れることが出来たと思います。そして自分に子が授かるという奇跡が起こり得ることを理解し、それが神様の選びであり恵みであるならば、人間として受け入れるしかない!「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」(38節)とは、マリアの信仰を表す言葉であり、私達の目標にすべき言葉です。 /n受胎告知の言葉を受けて・・ この後マリアは、エリサベト訪問のために「出かけ」ます。(私ならこのことを受け入れることに精一杯で、悶々と悩んで動けなくなるのではないかと思います)。「出かけて」(39節)は、立ち上がって=死から立ちあがる復活の語源になっています。驚きや恐怖の状況から、神様の恵みを授かり、それを受け入れることによって立ち上がり、次の一歩を進めることが出来る!という希望を、この、マリアの行動から見てとれます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">いかに美しいことか 良い知らせを伝える者の足は</span>。」(イザヤ書52:7)   このマリアこそ「神の御子がこの世に生まれた!」という最初の良い知らせを携えた者、福音伝道者の最初の人物だったと言えるでしょう。マリアの訪問を受けて挨拶を聞いたエリサベトは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました。  奇跡を受けて、それを感謝して受け入れた者同士が、互いに喜びを交流し、その源である神様を讃美するという美しい光景が、ここに(エリサベトとマリアの間に)ありました。 /n今日の聖書から学ぶこと 今日の聖書から学ぶのは、第一に、マリアの信仰の土台に聖書の知識があったこと(神様のこと、イスラエル民族の歴史や、神様の前に正しく歩むことが良いことであることを知っていたこと)。第二に、マリアもエリサベトも思い上がる人々ではなかったこと。第三に、マリアは人間的な自分の思いよりも神様の御言葉の預言を第一として受け入れたこと。そして第四に、信仰によって神様の呼びかけを受け入れた者同士は、本当の深いところでの交流ができ、それが更なる喜びとなり力となる!と知らされたことです。私達の教会の中でも、そうありたいと願っています。