「救いの道に働く神の導き」  牧師 佐藤義子

/n エレミヤ書 31:15-17 /n マタイによる福音書 2:13-23     /nはじめに イエス様ご降誕を祝う降誕節に入りました。今年の降誕節は2月12日までで、2月13日の水曜日から受難節に入ります。日本では、クリスマスが終ると、すぐ、年末年始の準備に入り、クリスマスの喜びをじっくり味わい続けるという風習は育ちにくい環境にあります。 しかし、救い主が来られたという喜びと、救い主が私達にもたらして下さった「救いの中身」について、私達はもっともっと多くのことを知ることがあるように思います。約50日にわたる降誕節の間、私達が、自分自身と救い主イエス様とのつながり、更に、そのイエス様を私達に送って下さった神様とのつながりを深める時として過ごしたいと願っています。 /nエジプト避難・幼児虐殺・ナザレに住むこと 今日の聖書は、三つの出来事が記されています。一つは、イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていることを夢で知らされた父ヨセフは、一家で、エジプトに避難したこと。二つ目は、ヘロデがイエス様を殺すべくベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺したこと。三つ目に、エジプトに避難していた父ヨセフは、夢でヘロデ王が死んだことを知らされ、一家はイスラエルに戻って来たこと、しかしユダヤ地方を支配していたのは、悪名高きヘロデ王の息子アルケラオであることを聞いたヨセフは、再び夢で、ガリラヤ地方のナザレの町に導かれ、そこでの生活を始めたということが記されています。 /n預言の言葉の実現 この三つの出来事に共通しているのは、いずれも、旧約時代の預言者の言葉が「実現するため」、「実現した」、と記されていることです。最初の出来事は、旧約聖書のホセア書11章の1節、二つ目の、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事も預言者エレミヤの言葉が引用されています(31:15-)。最後の句は、おそらくイザヤ書11:1の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる</span>」という、メシアが、切り倒された木から若枝の如く出て来るという言葉の、旧約聖書原語のヘブライ語「若枝」が、新約聖書のギリシャ語に訳される時に「ナザレの人」への転化が起こったと考えられています。   /n「彼はナザレの人と呼ばれる」 イエス様の時代「ナザレ人」といえば、ユダヤ人が侮蔑を込めて呼んだ名称(ナザレ出身者は「いなかもの」)で、その人の低さを表すあらわす言葉)でした。イエス様は高くそびえる木ではなく、切り倒された株から出た新鮮な若枝のように、救い主イエス様の低さをあらわす「しるし」となった「ナザレ人」の名称でありました。馬小屋で生まれたことも、低さを象徴するものでしたが、ナザレに住み、そこで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになったことも、イエス様の低さを表し、その生涯も常に、低く見られた人達の良き友となり、そして人々が最も忌み嫌う十字架による最期を迎えられたイエス様の、その目的は何であったかといえば、それは私達人間を、罪の支配から救いだす為でありました。 /n救いの道に働く神の導き 私達は、イエス様が来られたことによって神様を知り、神様の愛を知り、イエス様を信じて、悔い改めることにって、神様とつながることが出来るようになりました。約2000年前に、その救いの道を開くべく、神様は幼子イエス様を私達の住む世界に誕生させ、ヘロデ王の手から守る為にエジプトに避難させ、ヘロデ王の死によって再びナザレの町へと導かれました。すべては神の御子イエス様が、救いの道を開いていく為の、神様の御計画であり、導きでした。そのプロセスを見る時、多くの困難や苦しみ、悲しみが伴いましたが、救いへの道は確実に準備されて、今日の私達の祝福された歩みがあります。私達はともすると目に見えることだけで一喜一憂し、そこに隠された意味があることなど、あまり考えません。しかし全ての事には、神様の御計画、神様の意図、神様の導きがあることを覚え、新しき年の歩みが、御言葉を通して神様の御声を聴きつつ歩む日々となれるように、祈り求めていきたいと願うものです。 /n エレミヤ書 31:15-17 /n マタイによる福音書 2:13-23     /nはじめに イエス様ご降誕を祝う降誕節に入りました。今年の降誕節は2月12日までで、2月13日の水曜日から受難節に入ります。日本では、クリスマスが終ると、すぐ、年末年始の準備に入り、クリスマスの喜びをじっくり 味わい続けるという風習は育ちにくい環境にあります。 しかし、救い主が来られたという喜びと、救い主が私達にもたらして下さった「救いの中身」について、私達はもっともっと多くのことを知ることがあるように思います。約50日にわたる降誕節の間、私達が、自分自身と救い主イエス様とのつながり、更に、そのイエス様を私達に送って下さった神様とのつながりを深める時として過ごしたいと願っています。 /nエジプト避難・幼児虐殺・ナザレに住むこと 今日の聖書は、三つの出来事が記されています。一つは、イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていることを夢で知らされた父ヨセフは、一家で、エジプトに避難したこと。二つ目は、ヘロデがイエス様を殺すべくベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺したこと。三つ目に、エジプトに避難していた父ヨセフは、夢でヘロデ王が死んだことを知らされ、一家はイスラエルに戻って来たこと、しかしユダヤ地方を支配していたのは、悪名高きヘロデ王の息子アルケラオであることを聞いたヨセフは、再び夢で、ガリラヤ地方のナザレの町に導かれ、そこでの生活を始めたということが記されています。 /n預言の言葉の実現 この三つの出来事に共通しているのは、いずれも、旧約時代の預言者の言葉が「実現するため」、「実現した」、と記されていることです。最初の出来事は、旧約聖書のホセア書11章の1節、二つ目の、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事も預言者エレミヤの言葉が引用されています(31:15-)。最後の句は、おそらくイザヤ書11:1の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる</span>」という、メシアが、切り倒された木から若枝の如く出て来るという言葉の、旧約聖書原語のヘブライ語「若枝」が、新約聖書のギリシャ語に訳される時に「ナザレの人」への転化が起こったと考えられています。   /n「彼はナザレの人と呼ばれる」 イエス様の時代「ナザレ人」といえば、ユダヤ人が侮蔑を込めて呼んだ名称(ナザレ出身者は「いなかもの」)で、その人の低さを表すあらわす言葉)でした。イエス様は高くそびえる木ではなく、切り倒された株から出た新鮮な若枝のように、救い主イエス様の低さをあらわす「しるし」となった「ナザレ人」の名称でありました。馬小屋で生まれたことも、低さを象徴するものでしたが、ナザレに住み、そこで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになったことも、イエス様の低さを表し、その生涯も常に、低く見られた人達の良き友となり、そして人々が最も忌み嫌う十字架による最期を迎えられたイエス様の、その目的は何であったかといえば、それは私達人間を、罪の支配から救いだす為でありました。 /n救いの道に働く神の導き 私達は、イエス様が来られたことによって神様を知り、神様の愛を知り、イエス様を信じて、悔い改めることにって、神様とつながることが出来るようになりました。約2000年前に、その救いの道を開くべく、神様は幼子イエス様を私達の住む世界に誕生させ、ヘロデ王の手から守る為にエジプトに避難させ、ヘロデ王の死によって再びナザレの町へと導かれました。すべては神の御子イエス様が、救いの道を開いていく為の、神様の御計画であり、導きでした。そのプロセスを見る時、多くの困難や苦しみ、悲しみが伴いましたが、救いへの道は確実に準備されて、今日の私達の祝福された歩みがあります。私達はともすると目に見えることだけで一喜一憂し、そこに隠された意味があることなど、あまり考えません。しかし全ての事には、神様の御計画、神様の意図、神様の導きがあることを覚え、新しき年の歩みが、御言葉を通して神様の御声を聴きつつ歩む日々となれるように、祈り求めていきたいと願うものです。 /n エレミヤ書 31:15-17 /n マタイによる福音書 2:13-23     /nはじめに イエス様ご降誕を祝う降誕節に入りました。今年の降誕節は2月12日までで、2月13日の水曜日から受難節に入ります。日本では、クリスマスが終ると、すぐ、年末年始の準備に入り、クリスマスの喜びをじっくり 味わい続けるという風習は育ちにくい環境にあります。 しかし、救い主が来られたという喜びと、救い主が私達にもたらして下さった「救いの中身」について、私達はもっともっと多くのことを知ることがあるように思います。約50日にわたる降誕節の間、私達が、自分自身と救い主イエス様とのつながり、更に、そのイエス様を私達に送って下さった神様とのつながりを深める時として過ごしたいと願っています。 /nエジプト避難・幼児虐殺・ナザレに住むこと 今日の聖書は、三つの出来事が記されています。一つは、イエス様がベツレヘムでお生まれになった後、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていることを夢で知らされた父ヨセフは、一家で、エジプトに避難したこと。二つ目は、ヘロデがイエス様を殺すべくベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を殺したこと。三つ目に、エジプトに避難していた父ヨセフは、夢でヘロデ王が死んだことを知らされ、一家はイスラエルに戻って来たこと、しかしユダヤ地方を支配していたのは、悪名高きヘロデ王の息子アルケラオであることを聞いたヨセフは、再び夢で、ガリラヤ地方のナザレの町に導かれ、そこでの生活を始めたということが記されています。 /n預言の言葉の実現 この三つの出来事に共通しているのは、いずれも、旧約時代の預言者の言葉が「実現するため」、「実現した」、と記されていることです。最初の出来事は、旧約聖書のホセア書11章の1節、二つ目の、ヘロデ王による幼児虐殺の出来事も預言者エレミヤの言葉が引用されています(31:15-)。最後の句は、おそらくイザヤ書11:1の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる</span>」という、メシアが、切り倒された木から若枝の如く出て来るという言葉の、旧約聖書原語のヘブライ語「若枝」が、新約聖書のギリシャ語に訳される時に「ナザレの人」への転化が起こったと考えられています。   /n「彼はナザレの人と呼ばれる」 イエス様の時代「ナザレ人」といえば、ユダヤ人が侮蔑を込めて呼んだ名称(ナザレ出身者は「いなかもの」)で、その人の低さを表すあらわす言葉)でした。イエス様は高くそびえる木ではなく、切り倒された株から出た新鮮な若枝のように、救い主イエス様の低さをあらわす「しるし」となった「ナザレ人」の名称でありました。馬小屋で生まれたことも、低さを象徴するものでしたが、ナザレに住み、そこで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになったことも、イエス様の低さを表し、その生涯も常に、低く見られた人達の良き友となり、そして人々が最も忌み嫌う十字架による最期を迎えられたイエス様の、その目的は何であったかといえば、それは私達人間を、罪の支配から救いだす為でありました。 /n救いの道に働く神の導き 私達は、イエス様が来られたことによって神様を知り、神様の愛を知り、イエス様を信じて、悔い改めることにって、神様とつながることが出来るようになりました。約2000年前に、その救いの道を開くべく、神様は幼子イエス様を私達の住む世界に誕生させ、ヘロデ王の手から守る為にエジプトに避難させ、ヘロデ王の死によって再びナザレの町へと導かれました。すべては神の御子イエス様が、救いの道を開いていく為の、神様の御計画であり、導きでした。そのプロセスを見る時、多くの困難や苦しみ、悲しみが伴いましたが、救いへの道は確実に準備されて、今日の私達の祝福された歩みがあります。私達はともすると目に見えることだけで一喜一憂し、そこに隠された意味があることなど、あまり考えません。しかし全ての事には、神様の御計画、神様の意図、神様の導きがあることを覚え、新しき年の歩みが、御言葉を通して神様の御声を聴きつつ歩む日々となれるように、祈り求めていきたいと願うものです。