「神の養いの中で」  遠藤尚幸神学生(東京神学大学)

/n詩編68:23 /nマタイ福音書6:25-34     /nはじめに  初めて仙台南伝道所に来たのは、今から約8年前の2005年でした。誘われて、おそるおそる教会という場所に足を踏み入れた時のことを今でも思い出します。それから一年後の2006年4月に仙台南伝道所で洗礼を受けました。同じ年、私は社会人にもなりました。社会人生活をしながら毎週日曜日、車で高速に乗り、古川から約30分かけてこの伝道所に通いました。そういう生活を続ける中で、自分は何の為に生き何の為に死んでいくのか。又、神様が自分に与えられている仕事は何か、を考えるようになりました。その中で牧師になる(献身)という一つの道が示されました。牧師に相談し、祈り、受洗から3年後の2009年に会社を退職し、東京神学大学に進学することを決めました。 それからもうすぐ4年の月日が経とうとしています。上京当時は知り合いもなく、将来の見通しもあったわけではなく、不安の中で始まった学生生活でしたが、その後、現在在籍している教会との出会いが与えられ、様々な人々との出会い、神学校での学びと教会での学びに支えられながら進んでいきました。自分自身の信仰が揺さぶられ、打ち砕かれ、また、想像以上の沢山の恵みが与えられた4年間でもありました。仙台南伝道所の皆様には、この4年間、お祈りと奨学金という支えをいただきました。離れていても共に礼拝を守る群れとして、いつも繋がっていると感じてきました。 今朝は、今年初めての主の日の礼拝を、この仙台南伝道所で共に守ることのできる幸いを、心から神様に感謝しています。 /n神学生時代  神学校での4年間は、大変恵まれた4年間でありましたが、その反面、不安や恐れのない4年間ではありませんでした。さまざまな思い悩みがありました。夏期伝道実習では、実習先の牧師から、厳しい言葉をいただきました。ある時には聖書そのものが読めなくなる経験もしました。又、説教を聴いても御言葉が響いてこない時期もありました。伝道者を志す者として「神様に召された」という思いが、逆に自らを苦しめるものとなっていきました。東京の教会に於いても、神学生として厳しいお叱りを受けることも多々ありました。振り返ってみれば、辛く悲しい思い悩まずにはいられないような現実と向き合うこの4年間でもありました。 /n私達の思い悩み  考えてみれば、人生において誰しもが、「思い悩み」を持って生きているのではないでしょうか。生きていれば病気もします。自分の命のことを考えます。人間はなぜ死ぬのか、また何の為に生まれて来たのか・・。そのような、私達にとって避けることの出来ない思い悩みが誰にもあります。右に行っても左に行っても、さほど影響のないような、ごくごく小さな思い悩みの時もありますが、反対に、人生に大きな影響を及ぼす重要な決断を迫られるような思い悩みもあります。言ってみれば私達の日々の生活は、このような、思い悩まずにはいられない決断の連続と言ってよいかもしれません。時には、どちらに行こうとも、もうどこにもたどり着けないような「行き詰まり」さえ経験することがあります。 /n「思い悩むな」  そういう私達の、思い悩まずにいられない現実に対して、聖書は今朝、私達にこう語ります。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。</span>」(マタイ福音書6:25)。 さまざまな思い悩みがある私達の日常生活の中で、主イエスが「思い悩むな」と言って下さることは、それだけで意味があり、素晴らしいことだと思います。まさに、思い悩まずにはいられない私達に対する、神様の励ましの言葉であると言えるでしょう。 しかしその一方で、この言葉を容易には受け取ることの出来ない自分に気付きます。「思い悩むな」と言われて私達は思い悩むことをやめることが出来ない自分自身の姿と直面させられるのではないでしょうか。 /n「空の鳥をよく見なさい。」  「<span class="deco" style="font-weight:bold;">空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか</span>。」(マタイ6:26)  思い悩みの現実にある時、その中心は「自分」です。25節に「自分の命」・「自分の体」という言葉が続きます。神様を見ないで、自分ばかり見る。自分のことしか考えない。そういう私達の現実に対して、主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」と教えて下さいます。空の鳥は種も蒔きません。刈入れもしません。倉に納めもしない。けれども天の父はこの鳥を養って下さいます。又、主イエスは続けて「<span class="deco" style="font-weight:bold;">野の花がどのように育つのか、注意して見なさい</span>」と言われます。野の花は働きもせず、自らを紡ぐこともありません。けれども野の花は、「栄華を極めた王」ソロモンよりも着飾っていると言っています。野の花はいつ捨てられるか分からないような、そういう小さな存在です。その花を神様は装って下さいます。この野の花の姿を見る時、私達は、野の花を越えて神様の養いがあることを教えられるのではないでしょうか。これらの主イエスの言葉は、「自分ばかり見るのではなく、あなたを養い、あなたを守り導いて下さる神様にこそ 目を留めなさい」ということを私達に教えてくれています。 /n「海の深い底から」  昨年8月に、私の所属する教会の先生と共にボランティアチームに参加し、宮古に行ってきました。宮古には2月に続いて二度目です。行く途中、ある教会に寄りましたが、その教会の先生が、2月には行かなかった場所に案内して下さいました。そこでは震災時に約160名余りの人が避難しましたが、120名以上の方が津波の被害で亡くなった場所でした。その建物の中の壁は剥がされ、天井は傷つき、当時の凄まじさを まざまざと見せつけられ、恐ろしさを感じました。その場所の一番大きな部屋の中心には現在祭壇が置いてあり花が置かれています。その前で、先生が聖書を読んで下さいました。 それが今朝の旧約聖書の御言葉です「<span class="deco" style="font-weight:bold;">主は言われる。『バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう。</span>』」(詩編68:23)   先生は、その場所は本当に地獄のような場所だったと、当時の状況を知る人から聴いたそうです。そしてこう語られました。「主なる神様は、私達が海の底に行っても、地獄の底に行っても必ず連れ帰るという約束をして下さっています。まさに、地獄だと言われたその場所からもイエス様が連れ帰って下さる、という約束を信じたいと思います」と。 私達はその祭壇の前で、祈りを捧げました。私は、「海の深い底から連れ帰ろう」という神様の約束の言葉に、どんなに辛く受け入れ難いような現実の中にも、主イエス・キリストの 救いの約束があることを教えられました。「海の深い底から連れ帰ろう」、そう神様は約束をして下さっている。想像を絶するような、まるで地獄のような場所にもイエス・キリストが立っておられることを知りました。   今日1月6日は、教会歴で「公現日」(*注)です。12月25日のクリスマスに、私達の為に生まれたイエス・キリストが、おおやけの前に「救い主」として現れた日として制定されています(*注:東方の博士が星に導かれてキリストを礼拝したことが中心となり、クリスマスから12日後の1月6日に祝う。顕現日ともいう)。 イエス・キリストは、遠い昔に生まれたお方でありながら、同時に今ここで、礼拝を守る私達の目の前に立たれています。又、イエス・キリストは、私達が人生につまずき、もうこれ以上どこにも進めないような、 思い悩みから逃れられない現実の中で、私達と共にいてくださいます。 /n神の養いの中で  マタイ福音書6:31以下に「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである</span>。」とあります。思い悩みの現実の中に投げ出される時、人生の行き詰まりを感じている時、私達はその絶望の淵に立って私達を救おうとされている「一人のお方」に出会います。絶望の淵にこそ神様の守りがあることを知らされます。もうそこから先に進む事のできない、そのような時にその淵に立ち、私達と共にいて下さるイエス・キリストと出会います。 神様は私達に必要なものをすべて御存知です。それは、私達が思い悩み、自分のことを考えている以上に、神様が私達のことを考えて下さっていると言い換えることが出来ます。その確かな証拠として、神様はその独り子イエス・キリストを私達に与えて下さいました。人生に行き詰まり、自分の事しか考えないような罪深い私達の現実の中に、神様は主イエス・キリストを遣わされたのです。イエス・キリストは神の子でありながら、私達の罪のために十字架に架かって死なれました。ですから、私達が今立っている(生かされている)場所は、何の保証も無い場所ではありません。 そこは、イエス・キリストの十字架の死によって私達の罪が赦され、神様が私達の父となって下さり、守り養って下さっている場所です。現実の只中で、この場所こそが、神様の養いの中にあります。 /n「神の国と神の義を求めなさい」  33節にはこう続きます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる</span>」。  「神の国」とは、神様のご支配と言い換えることが出来ます。「神の義」とは、神様の御心に従って生きていくことと言い換えることが出来ます。私達は、何よりも先ず、神様によるご支配を求め、御心が何であるかを 聴きつつ生きることにこそ、思い悩みから解放される唯一の道があることを知らされます。そのようにして初めて、私達の人生に必要なものが備えられていきます。 「必要なものが備えられてから」ではありません。「まず、神様のご支配と御心を求める」ことによって、私達はその時その時に必要なものを、「神様からの恵み」として受けとっていきます。それによって日々の思い悩みから解放され、神様の養いの中で安心して生きていけます。 このことは、私達の考えと逆の発想でありましょう。全てが備えられたから、神様のことを信じるのではありません。何一つ備わっていないそういう状況の中でも、神様のご支配と御心を求めて歩む。その歩みの 中で必要なものが備えられていくのです。そのことを知らされ、受け入れ、主イエスを救い主と信じて告白して歩んでいくことが私達にとっての信仰生活です。信仰生活とはそういう意味で、何一つ持たず、ただ主イエスのみに信頼して歩んで行くことと言い換えることが出来ます。そしてその時にこそ私達は、思い悩みから解放されていくのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である</span>。」   そのようにして、神の国と神の義を求めるという信仰生活が与えられてもなお、この言葉は、その日の苦労、その日の思い悩みは残るということが言われます。しかしその思い悩みは、もはや人生が行き詰ってしまうような、思い悩みではありません。なぜなら私達は、絶望の淵に立ち、私達を救おうとなさる主イエス・キリストが、私達と共にいることを知らされているからです。思い悩みの只中にある私達と共に、主イエスはいて下さる。たとえどのような辛く悲しい現実があろうとも、私達の与えられている希望は決して無くなることはありません。そして、その希望は、私達が死んだ後もなお、輝いています。 /nあなた方の父 主イエス・キリストは、天の父なる神様を「あなたがたの天の父」と、私達に教えて下さいました(26節)。イエス・キリストの父なる神様は、十字架の出来事を通して、私達の父ともなって下さいました。私達を愛し、守り、導き、海の深い底から連れ帰ろうと約束して下さる神様が、私達の「天の父」として、私達をご支配の中に置き、養って下さっています。それ故に私達は、自らの人生の日々を、神様の御心を求めて思い悩みを担いつつ、神様の守りの中で安心して歩んでいくことが出来ます。 私たちは今日も、父なる神様のご支配の中で養われ、生かされています。