「新しい契約」  伝道師 平賀真理子

/nエレミヤ 31:27-34 /nマルコ 14:23-26 /nはじめに   イスラエルの民は、神様が本当に自分達の救いの為に「エジプトからの脱出」の出来事を通して働いて下さったことを覚えて、「過越祭」を代々、祝ってきました。先祖の困難に思いを馳せ、神様の偉大な助けと導きを感謝し続けたのです。そして又、イエス様が、ご生涯最後の過越の食事を弟子達となさることは、イエス様ご自身も切望されていたことでした。 イエス様が、最後の食事を弟子達となさることには二つの意味がありました。一つは、イエス様が、神様とイスラエル民族の間に交わした救いの約束を完成されること。もう一つは、神様とイスラエル民族との間に結んだ「民の律法の遵守と、神様の祝福」という契約が、人間の罪によって破られてしまった歴史の中で、契約を結び直されるということでした。 /n人間の神への不信仰と、神の愛 初めの契約が破られた人間側の「罪」とは、出エジプトへと救い出して下さった唯一の神様を、イスラエルの民は信じ続けることが出来ず、近隣の土地の偶像の神々への信仰に陥り、又、守るべき律法(十戒など)を守り続けることが出来なかったことです。神様は長い間忍耐されましたが、人々は神様に立ち帰ることなく、罪によって神様から遠ざかり、苦しみに喘ぐ生活を送るようになりました。それでも神様は人間を見捨てることなく、人間の悲惨な状況を救おうと、地上に御子イエス様を誕生させられました。 /n御子の誕生  神様は、御自身がどのような方であるのか(義や知恵や愛など)を、イエス様の御言葉や歩みによって、人間に分かるように知らせようとされました。しかし本当の意味で、弟子達も民衆も、イエス様をしっかりと認識して受け入れることは出来ませんでした。それでも人間を愛して下さる神様は、神様を信じる者との間に、新しい契約を打ち立てられたのです。 /n新しい契約 エレミヤ書によれば、新しい契約を結ぶ民は、「神様の律法を胸の中に授かり、心に記される」人々であり、「主を知っている」者です。それは、一人一人の心の中で起こされる信仰によるものです。新しい契約を結んだ人々に対して、神様は「<span class="deco" style="font-weight:bold;">その悪を赦し、再びその罪に心を留めることがない</span>」と、エレミヤ書31:34に記されています。  しかし、そうなるためには、その人の罪が清くされねばなりません。聖である神様は、その御性質上汚れた者を受け入れることは出来ないのです。そして人間は、人間だけの力で清くなれないことは自分のことでも、旧約聖書の何千年の歴史でも既に明らかです。 /n罪が赦され、清くされるために 神様の前に罪を償おうとすれば、人は、「命をもって」償わなければなりません。旧約の時代は、それが動物の血で肩代わりされていました。しかし、イエス様が来られたのは、何回も繰り返される動物の犠牲ではなく、ただ一回限り、罪のない神の御子・イエス様の血が流されることによって得られる、人間の罪の償い(と神様からの赦し)の為でした。 (参照:へブル書9:22「<span class="deco" style="font-weight:bold;">血を流すことなしに罪の赦しはありえない</span>」)。「自分の罪をイエス様が贖って下さる。イエス様の犠牲の死によって、自分の罪が赦される。」そのことを知り、信じて、イエス様を遣わされた神様を自分の神様とし、この神様の民とされることを約束した者は、神様の教えを胸に授けられ、心に記されるのです。 /n聖餐 聖餐は、イエス様が最後の過越の食事の時に、「パン」を「主の体」、「ぶどう酒」を「主の血」として「わたしの記念として行いなさい」と言われたことから、キリスト教会では洗礼と共に約2000年間守られています。洗礼は、自分ではどうしてもぬぐえない自分の罪をイエス様が贖って下さり、赦して下さったことを信じて、「イエス様は主である」と公に告白して受けるものです。洗礼後は聖餐によって、主の贖いの死を思い起こし、自分自身の救いの出来事を感謝し、再臨と神の国を待ち望みます。聖餐によって、イエス様を信じる者達は、本当にイエス様と結び付けられ、又、信じる者同士も ずっと結ばれ続けるのです。(後略)。