「仕える者になりなさい」  牧師 佐藤義子

/n箴言 3:32-34 /nマタイ福音書 20:20-28    /nはじめに    日曜日を除く40日間の受難節に入って一カ月が過ぎました。この時期、イエス様の御受難を覚え、克己(自分の欲望・感情などを抑える)・修養(御言葉に養われ、人格形成に努める)・悔い改め(神様を第一にせず、自分を最優先にして生きる罪などを悔い、日々、神様に立ち帰って生きる)の時として、過ごせたらと願っています。 /n受難予告よりも思いは・・ 今日の聖書の直前には、イエス様がこれからエルサレムで十字架につけられ、殺されて三日目に復活することを12人の弟子達だけに打ち明けられたことが記されています。受難の予告は三度目です。弟子達にとっては、きびしく重い話ですが、イエス様が死なれることへの覚悟は出来たようです。しかし、弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟、そして彼らの母親は、イエス様の死について深く考えるよりも、死の先にある「神の国」に思いを向けたようです。彼らは、イエス様にある願いをするため、イエス様のところにやってきました。 /n母親の願い イエス様から「何が望みか」と聞かれ、母親は、イエス様が天の国で王座につく時、息子達を、王座の左右に座らせて欲しいと頼みました。地上では、王様の右隣には、家来の中でも一番権力がある人が座り、左には、その次に権力のある人が座ります。息子達も一緒に来たということは、彼らの願いも、母親と同じであったということでしょう。 /n「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない」  母親も二人の弟子も、イエス様が神の国で栄光を受けられる時のことに思いをふくらませ、イエス様が予告され、これから向かおうとされている十字架の死に至る道については、目をそらしているのでしょうか。 しかし、イエス様と一緒に、神の国で、その栄光の恵みにあずかろうとするならば、今、地上で、イエス様が受けられようとするする苦難を共にし、さらにその後に続く苦難をも引き受けることが求められるのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">このわたしが飲もうとしている杯を飲むことが出来るか</span>」 イエス様は、この二人の弟子に、その覚悟があるのかどうか尋ねられました。ヤコブもヨハネも、イエス様が飲もうとしてしておられる杯の中身を十分理解しないまま、自分達は飲むことが出来ると答えます。イエス様は「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。」と、イエス様の十字架後、弟子達が歩むことになる厳しい道のりを示唆します。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">誰が座るかは、私の決めることではない</span>。」 この後イエス様は、御自分は地上では弟子達の主であるけれども、しかしすべてのことは、イエス様の思い通りではなく、父である神様の御命令通りになさること、天において誰がどこに座るかなど、神様がお決めになることであると教えられました。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなたがたの間では、そうであってはならない</span>」 ヤコブとヨハネのことを聞いて他の弟子達が憤慨していることを聞いたイエス様は、弟子達一同を呼び寄せて、この地上では、上にいる人が力をもち、下にいる人達を従わせているが、「あなたがたの間では、そうであってはならない」と教えられました。他人を上から見たり、相手を無力にするような力をイエス様は退けられます。イエス様が望まれるのは、他人を高め、強めるように力を用いることです。そのために自分を他者の奉仕者とし、仕えるしもべとなることを、弟子達に求められます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしと同じように</span>」 イエス様は、この教えの見本として御自分のことを見るように言われました。神の御子・イエス様が来られたのは、弱い人、貧しい人、苦しんでいる人達の為に奉仕し、彼らが神様のもとに立ち帰って癒され、元気になることでした。そして究極の目的は、罪の鎖につながれていた人間の為、十字架上で血を流されることで、神様から「罪の赦し」をいただき、罪の鎖を断ち切って下さることでした。すべては私達の為でした。私達、信じる者の間では、仕える者、しもべになることこそが、イエス様に従う道です。 最後に、フィリピ書2:1-11をお読み致します。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。</span>」(2:3-11)

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