「日々、新たにされる人生」  牧師 佐藤義子

/n詩編116:1-14 /nコロサイ書3:1-11     /nはじめに 今、教会のこよみでは復活節です。イエス様は、私達の罪が赦される為に十字架にかかって下さった、その受難を覚える受難節から、今や、死に勝利してイエス様が復活された、その喜びの中に私達は置かれています。寒くきびしい冬を過ごした私達は、今、庭の草木も芽吹き、花々が咲き始めた春を迎えています。  イエス様の有名な言葉の一つに「<span class="deco" style="font-weight:bold;">一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。</span>」があります。 一粒の麦が地中に埋もれて古い命を失うならば、やがてその殻を破って、新しい命が生れ出るように、この言葉は、イエス様御自身を一粒の麦に譬えて、イエス様が、人間を罪から救い出して永遠の命を与える為には、イエス様はどうしても死ななければならないことを意味した言葉です。そして予告通り、イエス様は十字架の死を受け入れられ、神様によって復活の命が与えられました /n死と新しい命にあずかる  聖書が繰り返し私達に教えているのは、イエス・キリストを信じた者は、イエス様の十字架の死にあずかり、それと同時に、イエス様が復活されたその復活の命にあずかっているということです。与る(あずかる)という言葉は、一般的には「分け前にあずかる」というように使われます。信仰の世界では、神様の恵みが雨のように降り注ぐ中で、その恵みを、私達も戴いているという意味で「恵みにあずかる」と使います。同じように、私達は、イエス様の死にあずかり、復活の新しい命にあずかっているのです。 /n私達生きている者が「死ぬ」ということ  今日のコロサイ書に、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">あなた方は、キリストと共に復活させられたのですから</span>、」とあります。キリストを知る前の私達(すなわち「種」の時)は、本能に従って生きており、この世の価値観に影響され、そのもとで、不自由な生活をしていました。しかし、私達がイエス様のことを信じた時、「種」であった私達は土の中に入れられて、種としては死んだのです。 それは、私達がそれ迄生きていた地上の世界のことがらに対して死んだということであり、地上のことがらに一喜一憂しなくなったということです。そして種の殻を破り、新しい命として生まれました。それは、地上にではなく「上にあるものを求めて」(1節)いく生き方に変えられたのです。「上」とは、「キリストが神の右の座についておられる」場所です。だから、「上にあるものに心をとめ、地上のものに心を引かれないように」生きていくのです。なぜなら、キリストと共に復活したということは、古い自分は、すでにキリストと共に死んでいるからなのです。 /n古い人を脱ぐ 同じことが9節でも言われます。「<span class="deco" style="font-weight:bold;">古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着けなさい</span>」。古い人を捨てるとは、「種」の時代に身に着けていたものを捨てることであり、今度は、造り主(神様・イエス様)の姿に見倣う、その教えに従って生きるように命じています。捨てるべきものとは怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、嘘・偽りです。罪の力は大きく、すきあらば私達を神様から引き離そうと誘惑します。ですから私達のすべきことは、それ迄の行いと一緒に古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身につけるのです。 /n日々、新たにされる人生 「新しい人」を身につけると、これ迄見えなかったものが見えるようになります。自分の中にある、神様から喜ばれないものが見え、逆に、喜んで受け入れていただけるものが見えるようになります。自分の中にある役にたつものと捨てるべきものが見えてきます。しかし「造り主の姿に倣う新しい人」は、一夜にしてなれるわけではなく、私達は「日々、新たにされて」・・・いわゆる更新し続けていくのです。 罪と堕落によって、私達人間をダメにしたものが、イエス様を信じる信仰によって取り去られて、私達は、イエス様の死と復活によって提供された、「新しい人」を身につけて、日々成長していくのです。