「わたしは道であり、真理であり、命である。」 牧師 佐藤義子

/n 詩編98:1-9 /n ヨハネ福音書14:1-11 /nはじめに 今日の聖書は、イエス様の、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心を騒がせるな</span>。」という弟子達に対する言葉から始まります。心を騒がせるとは、心がかき乱される、不安に脅かされることです。この時の弟子達は、どういう状況だったのでしょうか。 三つのことが考えられます。 一つは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」というイエス様の予告です。これまでイエス様を信じ、すべてを捨ててイエス様に従ってきた仲間から、脱落者がでるというのです。 二つには、(これが一番大きな原因と思われます)イエス様が弟子達から離れていくという予告です。イエス様から「わたしの行く所についてくることは出来ない」と言われ、この時ユダヤ人達の敵意・殺意は強く、弟子達は皆、イエス様との死別を覚悟し、厳しい状況に自分達が残されることを頭に浮かべたことでしょう。 三つには、リーダー格である弟子ペトロが、「あなたのためなら命を捨てます」とイエス様に言った時、イエス様は「あなたはわたしのことを三度知らないと言うだろう」と、ペトロがおおやけに、師であるイエス様を否認する予告をしたのでした。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい</span>。」 仲間の裏切り、イエス様との離別、リーダー格によるイエス様の否認・・。これらが弟子達の心を騒がせていたと想像できます。私達人間は、先が見えない時、希望が持てない時、挫折した時、敗北感を味わった時、心はかき乱され、失意の中で落ち込んでしまうことが常です。そのような状況に置かれて、尚、強く立ち続けていくには、どうしたら良いのでしょうか。 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい</span>。」 これがイエス様からのメッセージです。何一つ明るい希望の持てるような状況にない、その中で、イエス様は尚、これまでと同じように「神を信じ、わたしをも信じなさい」と信仰を要請されているのです。なぜならイエス様がこれから行こうとされている「父の家」には沢山の住まいがあり、場所の用意が出来たら、弟子達を迎えに戻って来られるからです。 イエス様は、「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている</span>」と、弟子達なら、その信仰によって知っているはずと言いました。 弟子のトマスは非常に驚き、「主よ、どこへ行かれるのか、私達には分かりません。」と答えます。今、イエス様を信じることこそが、これからのことに眼を開くことになるのに、トマスは無条件にイエス様を信じることが出来ず、イエス様の行き先も道も分からないと訴えます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない</span>。」  「真理」は、神様に所属し、神様だけが与えることが出来るものです。その真理をもっておられる神様と人間との間には、越えることのできない断絶があります。「道」とは、イエス様がその断絶の間に立ち、私達と神様との間をつなぐ、唯一の道になっておられるということです。「命」も又、神様に所属し、神様だけが与えることが出来るもので、私達を神様の所に行くことを可能にする力であり、私達を罪の中から神様のもとに引き上げる神様からの霊的な力です。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしを見た者は、父を見たのだ</span>。」 父である神様のところに行くには、イエス様が唯、一つの通路です。フィリポはイエス様に、「神様を示して下さい」と頼みました。人間は神様を見たいと思っているため、この世の中には数えきれない偶像が造り出されています。手で造った神々は、人間に真理を教える存在ではなく、人間に仕える、人間のための、人間の自由になる神々です。イエス様が教えられる「父なるまことの神」とは、「私が父の内におり、父がわたしの内におられる」と言われるように、イエス様と人格的に深く結合している神様です。イエス様は、神様の意志を御自分の意志として、無条件の絶対服従という道を歩まれました。 私達は、目に見えることだけに心を向けて、心を騒がせるのではなく、どのような状況が起こったとしても、希望を見出すことが困難な時でも、イエス様が教えられたように、神様を信じ、道となって最後まで導いて下さるイエス様を信じて、平安の中を歩んでいきたいと願うものです。