「主の御前における命」   伝道師 平賀真理子

/nイザヤ書49:5-6 /nヨハネ福音書11:40-53 /nはじめに 前回は、ラザロの姉妹マルタがイエス様に、「あなたがこの世に来ると預言されていた神の子・救い主と信じています」と告白をしたことに注目しました。その後、イエス様が死んだラザロに対して、神様の御業をなさるため墓穴に入ろうとされた時、信仰告白をしたばかりのマルタがそれをさえぎろうとしました。人間的な思いで、墓穴から死臭が漏れたらイエス様に対して失礼だと気を利かせたのでしょう。 しかしイエス様が求められたのは、この世の常識から来る予測ではなく、イエス様を神様の栄光を現わすお方として絶対的な信仰を示すことでした。 /n神の栄光 イエス様はマルタに、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言われました。神様の御力を奇跡で示し、人々に信じる気持を起こさせ、信じる者に永遠の命を授ける・・。そのことが「神の栄光」であると読み解けます。イエス様は、御自分が神様から派遣されたことを証しするために死者をよみがえらせるという「この世ではあり得ない奇跡」「神様の御業としか思えない奇跡」を行なわれたのです。 /n神様への絶対的信頼 この出来事の前にイエス様は、自分の願いは必ず叶(かな)叶えてもらえるとの、神様への絶対的信頼を表明しています。神様の御心を第一として歩んでおられるイエス様には、「神様の栄光を現わす出来事は願う前から叶う」という確信がありました。そしてイエス様の「出てきなさい」とラザロへの決定的な命令をもって、ラザロは、死の世界から光の世界へ戻ってきたのです。彼を縛っていた布はほどかれ、彼は「死」から解放されました。この出来事は、まさしく人智を越えた「奇跡」です。 /n私達にも起こった奇跡 しかしそれは同時に、私達一人一人の人生に起こった「奇跡」をも指しています。救い主イエス様と出会う前、私達は表向きはともかく心の奥底では、この世の価値観や罪の世界にがんじがらめになって、本来の自分を輝かせて生きていなかったのではないでしょうか。 そこへ、「主と出会う」奇跡が与えられたのです! 死んだように生きていた人間でも、主との出会いが与えられ、信仰をもって主の呼びかけに応えるならば、誰でも人智を越えた大きな力を戴き、暗闇から救い出される・・。ラザロの奇跡は、そのことが証しされているのです。 /n議会の決定 ラザロの復活を多くのユダヤ人が目撃して、その内の多くの人々がイエス様を信じました。しかし中には、イエス様を良く思っていないファリサイ派の人々にこのことを報告した人がいました。彼は本当に大事な事=「イエス様は神様から遣わされたメシア」に気付かず(信じることが出来ず)、この世の権威を重んじたのです。その結果、議会が招集され、大祭司カイアファから、イエス様の存在をなくすことこそが、ユダヤを戦禍から救うことになるとの結論が出されました。彼の発言(一人の人間の死が、民全体を救う)は、本人の考えではなく、その年の大祭司として、人類を救う神様のご計画を預言させる、的確な言葉となりました。 /n主の御前における命 父なる神様は、御子の命を犠牲にしてまでも、私達人間が神の国の民として生きるように、救いのご計画を進められました。私達の汚れた罪を、イエス様が十字架の死で肩代わりして下さったことにより罪が赦されたのです。「イエス様は神様から遣わされた救い主」として信じる者には、「新しい命・主の御前に立てる命」が与えられています。それは、本当に喜んで感謝して生きる命、「永遠の命」です。この命を与えられ、「神の国の民」とされた恵みに誠実に応えて生きる者であり続けられるよう、今週も聖霊の助けを祈り求めてまいりましょう。