「安らぎを与える主」  牧師 佐藤義子

/n詩編95:1-7 /nマタイ福音書 6:5-15 /nはじめに 「<span class="deco" style="font-weight:bold;">疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである</span>。」   ここで言われている「疲れ」「重荷」は、当時の人々を苦しめていた律法を守ることと関係しています。イスラエル民族は、神様から選ばれた民、「選民」と言われます。民族の祖先にアブラハムを持ち、モーセの時代には、神様から十戒を初めとする「律法」を与えられた民族です。律法の民とも呼ばれ、彼らは律法を守ることによって、高い倫理性をもって生きてきた人々でありました。  しかし、イエス様の時代、律法を重視するあまり、さまざまな弊害も出ておりました。人々は日常生活の中で、律法を守りながら生きることの苦労を強いられていました。ユダヤ教の場合、律法の十戒は10あるだけですが、律法研究者達は、十戒を徹底的に守る為の細則をつくり、たとえば安息日の守り方については、歩くのは何キロまで、物を持つのは何グラムまで、怪我をしても手当はここまで、などと人々に教えました。そのように、神殿への供え物について、宗教的儀式について、すべては細かい規定に縛られていたのです。そして、それらを守らない者達には、「罪人」のレッテルがはられ、神の国に入ることは出来ないと考えられていました。  昔、日本でも、仏教や神道などの諸行事は、伝統にのっとって定められ、人々の生活を支配していました。決められたことをすべて順序に従って執り行うことは、時には犠牲を強いられ、重荷となることは想像できます。イエス様は、神様を信じて正しく生きていきたいと思っている人達が、現実には律法を守ることが困難で、そのことで疲れを覚え、重荷を負う人々に、律法から解放して、休息と平安を与えようと招かれているのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい</span>」   「くびき」とは、畑を耕したり車を引かせる為に、牛などの家畜の首に棒をはめる木製の道具で、家畜を服従させ、仕事をしやすくする道具です。イエス様は「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と言われます。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">わたしは柔和で謙遜な者だから</span>」  柔和な人とは、自分を神様の貧しいしもべとして、神様の意志に完全に従順に従う人、それゆえに、隣人に対しては怒りや傲慢な思いを抱かない人のことです。それは、ほとんど「謙遜(けんそん)」と同じ意味といえます。イエス様は小さい者や弱い者をも大切にして、怒りや傲慢さは全くなく、ゆるす忍耐をもって私達を教え、導いて下さるのです。 /n「<span class="deco" style="font-weight:bold;">そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる</span>」  「そうすれば」とは、「イエス様のくびきを負ってイエス様に学ぶなら」、ということです。イエス様が約束される休息と平安は、この世の与えるものとは違います。なぜならそれは神様からくる休息と平安だからです。肉体の疲れは肉体を休めることで解決します。しかし、心の重荷、魂の重荷を下ろして休む場所は、この世にではなく、イエス様のところに用意されているのです。 私達は、これまで負ってきたくびき(この世の価値観、伝統、風習、常識・・)を、イエス様のもとで取り外し、イエス様のもとで休息した後に、今度は、イエス様が下さるイエス様のくびきをつけて、イエス様と共に新たな歩みを始めましょう。イエス様は柔和で謙遜なお方ですから、私達の歩む道は険しく辛くとも、イエス様から学ぶ時、そこにイエス様が下さる「安らぎ」が待っています。安らぎを与えて下さるイエス様の招きに、すべての方達が、喜んで応える者になりたいと祈り願うものです。